お知らせ
市民メディア放送局 OurPlanet-TV にて『福島からあなたへ』著者の武藤類子さん(ハイロアクション福島)のロングインタビューが配信されました。
CS朝日ニュースター でも再放送がございます。視聴方法など詳細は上記のウェブサイトを御覧ください。
ここでは、メールマガジン「大月書店通信」第36号を公開しております。
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大月書店通信 2012.1.30発行
Otsuki Shoten Publishers 第36号
http://www.otsukishoten.co.jp/ (毎月1回発行)
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「大月書店通信」第36号をお届けいたします。
今月の新刊、武藤類子さんの『福島からあなたへ』は、昨年9月の「さような
ら原発集会」で6万の聴衆に深い感動をよび、ネット上でも圧倒的支持を受け
た歴史的スピーチに、書き下ろし原稿と森住卓氏の美しい写真を加えた1冊。
刊行からまだ10日ほどですが、はやくも増刷が決定し、福島県民の不安と葛藤、
そして希望を力強く語った武藤さんの言葉が、多くの読者の心をとらえていま
す。
丁寧に作られた、美しい本です。ぜひ手にとって、ご覧ください。
■INDEX----------------------------------------------------------
1【新刊案内】 武藤類子『福島からあなたへ』ほか1月の新刊8点
2【話題の本】 ウォール街占拠の仕掛け人、カレ・ラースンの本をぜひ!
3【編集後記】
★ツイッターで随時情報を発信しています。
http://twitter.com/otsukishoten
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■新刊案内
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今月の新刊です。お近くの書店にてお求めください。
●6万人を感動させた決意と希望のメッセージ
……………………………………………………………………………………………
『福島からあなたへ』
武藤類子[著] 森住卓[写真] 1,260円(税込)
……………………………………………………………………………………………
原発震災がなければ、生まれなかった本です。でも、私たちが生かされている
地球という美しい星への愛を込めて書きました。お読みいただけたら嬉しいで
す。(著者:武藤類子[ハイロアクション福島])
http://www.otsukishoten.co.jp/book/b97138.html
●生存を支える労働と福祉の接続を再検討する≪シリーズ完結≫
……………………………………………………………………………………………
『労働再審6 労働と生存権』
山森亮[編] 2,730円(税込)
……………………………………………………………………………………………
雇用の劣化とともに社会保障制度の綻びが明らかになる中、「働ける/働けな
い」にかかわらず万人に生存を保障する制度は可能なのか。福祉国家の矛盾を
克服し、あらためて「労働」と「福祉」の接続のあり方を問い直す。
http://www.otsukishoten.co.jp/book/b97133.html
●子どもたちを守るために、伝えておきたい正確な基礎知識
……………………………………………………………………………………………
『カラー図解 ストップ原発2 放射能汚染と人体』
野口邦和[監修] 新美景子[文] 2,940円(税込)
……………………………………………………………………………………………
放射線の正体は、生物への影響は……正確で科学的な知識をわかりやすく図解。
原爆、核実験など、これまでの放射能汚染の実態を明らかにし、福島原発事故
による被曝や除染の実情を伝える。巻末に放射能から身を守る方法を収録。
http://www.otsukishoten.co.jp/book/b97131.html
●江戸の子どもの読んだ本は? 好きなお菓子は?
……………………………………………………………………………………………
『絵本 子どもたちの日本史3 明治・大正の子どものくらし』
加藤理[文] 石井勉[絵] 2,520円(税込)
……………………………………………………………………………………………
1923年に発生した関東大震災は町並みを破壊し、都市部に住む人々は本格的に
近代的な暮らしに移行していきます。この巻では、明治時代に育ったお父さん
やおじさいさんの話をまじえながら、大正末期の子どもの暮らしや教育、家庭
での生活をみていきます。(著者:加藤理)
http://www.otsukishoten.co.jp/book/b97132.html
●100のくらい、1000のくらい……10進法の基礎を学ぶ≪シリーズ完結≫
……………………………………………………………………………………………
『かならずわかるさんすうえほん[低学年5] おおきなかず』
石井孝子[文] 高橋由為子[絵] 1,890円(税込)
……………………………………………………………………………………………
10が10個で100、100が10個で1000…こうした大きな数の位どりは、低学年の子
どもたちがイメージしにくい単元のひとつです。20と3で203と答える子もい
ます。タイルを使って10進法のしくみをわかりやすく解説していきます。
http://www.otsukishoten.co.jp/book/b97137.html
●子どもたちを人間として大切にする教育実践
……………………………………………………………………………………………
『日本の民主教育2011』
みんなで21世紀の未来をひらく教育のつどい
―教育研究全国集会2011実行委員会(千葉)[編] 2,940円(税込)
……………………………………………………………………………………………
2011年8月に千葉で開催された「未来をひらく教育のつどい」の報告集。東日
本大震災の被災地からの特別報告や、教育や学校づくりの原点を改めて確認す
る実践やとりくみ等を紹介。中西新太郎さん(横浜市立大学)の記念講演を収
録。
http://www.otsukishoten.co.jp/book/b97136.html
●特集=いま、教職員組合だからできること
……………………………………………………………………………………………
『月刊 クレスコ』2月号 no.131 500円(税込)
……………………………………………………………………………………………
教育現場のさまざまな困難、東日本大震災と原発事故、教職員の労働基本権回
復といった状況の中で、教職員組合の役割を考える特集。●いま、なぜ労働組
合か(五十嵐仁) ●教職員組合運動の活性化で、子どもと教育の未来をひら
く ほか
http://www.otsukishoten.co.jp/book/b97141.html
●新春インタビュー◎今、日本に必要なこと
……………………………………………………………………………………………
『季刊 自治と分権』2012年冬号 no.46 1,050円(税込)
……………………………………………………………………………………………
●首長インタビュー 戸羽太さん(岩手県陸前高田市長) ●新たな福祉国家
の展望を! 渡辺治(一橋大学名誉教授) ●「大阪都構想」の財政批判 森
裕之(立命館大学教授) ほか
http://www.otsukishoten.co.jp/book/b97139.html
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■話題の本
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☆ウォール街占拠の仕掛け人、カレ・ラースンの本をぜひ!☆
ニューヨークから各地へ広がった経済格差への抗議運動「オキュパイ・ウォー
ルストリート(ウォール街を占拠せよ)」。その仕掛け人、カレ・ラースン氏
のロング・インタビューを元旦の朝日新聞でご覧になった方は多いのではない
でしょうか?
「成長一辺倒の米国型の経済モデルが行き詰まり、格差が目に余るようになっ
たから、占拠運動が広い支持を得た」と話す氏は、上記のインタビューにおい
て、「ウォール街を占拠せよ」のような常識を揺さぶるシンプルな言葉こそが
変革をもたらすのだと主張していました。
さて、小社から2006年に翻訳刊行した『さよなら、消費社会』は、そうした「常
識を揺さぶる言葉」を生み出すためのアイデアが詰まった、日本語で読むこと
ができる氏の唯一の著作。鋭い洞察と豊かな発想に満ちたこの本、一読の価値
ありです。
◆カレ・ラースン[著]加藤あきら[訳]
『さよなら、消費社会――カルチャー・ジャマーの挑戦』2,310円(税込)
http://www.otsukishoten.co.jp/book/b55075.html
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☆『異質の光』著者、高谷清氏がペスタロッチー教育賞受賞☆
小社刊『異質の光――糸賀一雄の魂と思想』の著者、高谷清氏が、優れた教育
実践をおこなっている個人や団体に贈られるペスタロッチー教育賞を受賞しま
した(1月25日付の朝日新聞「ひと」欄でも紹介)。
滋賀県にある重症心身障害児施設「びわこ学園医療福祉センター草津」の園長
を長きにわたって務め、彼らの生に真正面から向き合ってきた高谷氏。小社か
らは、日本の障害者福祉の基礎づくりに多大な業績を残した糸賀一雄の評伝『異
質の光』のほか、『透明な鎖――障害者虐待はなぜ起こったか』『はだかのい
のち――障害児のこころ、人間のこころ』を刊行しております。
これを機に、ご覧いただければ幸いです。
◆高谷清[著]
『異質の光――糸賀一雄の魂と思想』2,310円(税込)
http://www.otsukishoten.co.jp/book/b53174.html
『透明な鎖――障害者虐待はなぜ起こったか』1,680円(税込)
http://www.otsukishoten.co.jp/book/b53147.html
『はだかのいのち――障害児のこころ、人間のこころ』1,575円(税込)
http://www.otsukishoten.co.jp/book/b53731.html
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■編集後記
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来月は、山家悠紀夫・井上伸[著]『消費税増税の大ウソ――「財政破綻」論
の真実』、大島堅一・除本理史[著]『原発事故の被害と補償――フクシマと
「人間の復興」』、高史明・高橋哲哉[著]『いのちと責任』など、注目の新
刊が目白押しです。ご期待ください。
12月の新刊情報
http://www.otsukishoten.co.jp/news/n3531.html
2月の新刊情報(予定)
http://www.otsukishoten.co.jp/news/n3529.html
1月の重版情報
http://www.otsukishoten.co.jp/news/n3530.html
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■大月書店のサイトポリシー
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[発行]
株式会社 大月書店
〒113-0033 東京都文京区本郷2-11-9
http://www.otsukishoten.co.jp/
Tel: 03-3813-4651 / Fax: 03-3813-4656
E-mail: info@otsukishoten.co.jp
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2011年12月の新刊情報を掲載しております。
●佐藤滋[編]『東日本大震災からの復興まちづくり』2,310円(税込)
●二宮厚美/福祉国家構想研究会[編]『新福祉国家構想1 誰でも安心できる医療保障へ――皆保険50年目の岐路』1,995円(税込)
●仁平典宏/山下順子[編]『労働再審5 ケア・協働・アンペイドワーク――揺らぐ労働の輪郭』2,730円(税込)
●野口邦和[監修]新美景子[文]『カラー図解 ストップ原発1 大震災と原発事故』2,940円(税込)
●加藤理[文]石井勉[絵]『絵本 子どもたちの日本史2 江戸時代の子どものくらし』2,520円(税込)
●『月刊 クレスコ』1月号 no.130 500円(税込)
●『放送レポート』1月号 no.234 500円(税込)
書店様向けに毎月お送りしている新刊案内です。以下からダウンロードしてご利用ください。
大月書店新刊案内2012年2月(PDFファイル)
http://otsukishoten.hondana.jp/files/shinkan/otsuki2012-2.pdf
2012年1月の重版情報を掲載しております。
●『不登校セラピー』3刷
●『日本の領土紛争』2刷
●『青年の社会的自立と教育』2刷
●『悲しみにおしつぶされないために』2刷
2011年12月28日の『SANKEI EXPRESS(サンケイエクスプレス)』に、『ドキュメント アメリカ先住民』の著者・鎌田遵さんのインタビュー記事が掲載されました。
以下のページでご覧いただけます。
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/america/540089/
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/america/540718/
【関連記事】
2011/12/11朝日新聞読書面(書評掲載・評者は後藤正治氏)
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2011121200018.html
2011年11月の新刊情報を掲載しております。
●鎌田遵[著]『ドキュメント アメリカ先住民――あらたな歴史をきざむ民』2,940円(税込)
●岩谷良恵[著]『おしゃべり・雑談の政治哲学――近代化が禁じた女たちの話し合いと〈講〉』4,410円(税込)
●鈴木敏正/姉崎洋一[編]『持続可能な包摂型社会への生涯学習――政策と実践の日英韓比較研究』4,725円(税込)
●野上暁/加藤理[文]石井勉[絵]『絵本 子どもたちの日本史1 むかしむかしの子どものくらし』2,520円(税込)
●『月刊 クレスコ』12月号 no.129 500円(税込)
書店様向けに毎月お送りしている新刊案内です。以下からダウンロードしてご利用ください。
大月書店新刊案内2012年1月(PDFファイル)
http://otsukishoten.hondana.jp/files/shinkan/otsuki2012-1.pdf
2011年12月の重版情報を掲載しております。
●『育てにくい子にはわけがある』26刷
●『ファンタジー・バルーン』12刷
●『近代天皇制国家の歴史的位置』2刷
5月の刊行以来、ロングセラーとなっている『音楽と数学の交差』。大好評につき、著者の桜井進氏、坂口博樹氏による直筆メッセージ入りのポップをご用意いたしました。ぜひご活用ください。
★ダウンロードはこちらからどうぞ!(PDFファイルです)
http://www.otsukishoten.co.jp/files/hansoku/m&m_pop.pdf
書店様向けに毎月お送りしている新刊案内です。以下からダウンロードしてご利用ください。
大月書店新刊案内2011年12月(PDFファイル)
http://otsukishoten.hondana.jp/files/shinkan/otsuki2011-12.pdf
(2011.11.21)
2011年10月の新刊情報を掲載しております。
●安田浩[著]『近代天皇制国家の歴史的位置――普遍性と特殊性を読みとく視座』3,570円(税込)
●唯物論研究協会[編]『唯物論研究年誌第16号 市場原理の呪縛を解く』3,675円(税込)
●石井孝子[文]高橋由為子[絵]『かならずわかるさんすうえほん[低学年4] かけざん』1,890円(税込)
●『月刊 クレスコ』11月号 no.128 500円(税込)
●『放送レポート』11月号 no.233 500円(税込)
●『季刊 自治と分権』2011年秋号 no.45 1,050円(税込)
2011年11月の重版情報を掲載しております。
●『音楽と数学の交差』3刷
おかげさまで小社はこの11月に創業65周年を迎えます。そこで、記念事業の一環として、東京都民銀行・神田支店様のショーウインドーをお借りし、11月1日からの1カ月間、書籍展示を開催いたします。
小社の代名詞であるマルクス関連の書籍から、各種シリーズ、ロングセラー、写真集などの大型本まで、約100点のセレクトです。会場では図書目録を配布。お気軽にお立ち寄りください。
▼東京都民銀行・神田支店
〒101-0052 東京都千代田区神田小川町3-3
TEL 03-3293-5941/営業時間 9:00~15:00
http://www.mapion.co.jp/c/f?uc=4&pg=1&grp=tomin_bk&ino=BA719997
「考える絵本」シリーズの第10巻に予定しておりました『神さま』(文・中沢新一)は、諸般の事情により刊行を中止することにいたしました。
ご注文や予約をいただいたお客様、度々の問い合わせをいただきました書店様、関係者の皆様には、多大なご迷惑をおかけしましたことを、心よりお詫び申し上げます。
2011年11月4日
雑誌『経済』の2011年12月号に、大門正克氏(横浜国立大学教授)と柳沢遊氏(慶應義塾大学教授)の対談「高度成長への視座――シリーズ『高度成長の時代』から現代へ」が掲載されました。
小社刊『高度成長の時代』(全3巻)は、1950年代半ばから70年代初頭まで、年平均10%の経済成長率が続いた時代に日本社会に起きた変化を、20人余の執筆者により多角的に研究したもの。大門氏、柳沢氏はともに編集委員を務められました。
■柳沢「高度成長による経済状況の変化の下、人々が日々の経済活動や生活にどう立ち向かったか、あるいは、高度成長の『神話』にどのように包摂されていったのかという検証が課題として残されていると思います。その点で『高度成長の時代』シリーズは(中略)これまで紹介した研究書にはない意義と特徴を持ったとみています」
■大門「第3巻の発行が、ちょうど3・11の大震災発生と重なりました。それから半年、あらためて戦後日本の歩みに、人々の目が向けられているのは不思議ではありません。戦後の日本経済の成果とともに、その中で私たちが捨て去ってしまったものは何かについて、大きなアウトラインを描く仕事が求められているように思います」
本対談は、シリーズの解説になっているだけでなく、現代の歴史研究に何が問われているのかを論じ、刺激的です。これをきっかけとして各巻を、また関連書も手にとっていただければ幸いです。
2011年10月の重版情報を掲載しております。
●『文庫 資本論①』39刷
●『ナショナリズムの歴史と現在』11刷
●『マルクス自身の手による資本論入門』7刷
●『音の不思議をさぐる』7刷
●『10代のメンタルヘルス③ うつ病』6刷
●『10代のメンタルヘルス⑧ ストレスのコントロール』5刷
2011年9月の新刊情報を掲載しております。
●代島治彦[著]『ミニシアター巡礼』2,625円(税込)
●西澤晃彦[編]『労働再審4 周縁労働力の移動と編成』2,730円(税込)
●吉田三千雄[著]『戦後世界と日本資本主義6 戦後日本重化学工業の構造分析』2,940円(税込)
●『月刊 クレスコ』10月号 no.127 500円(税込)
2011年8月の新刊情報を掲載しております。
●野口邦和[監修]プロジェクトF[文]『原発・放射能図解データ』1,890円(税込)
●松竹伸幸[著]『これならわかる日本の領土紛争』1,680円(税込)
●制度研[編]『お金の心配をさせない学校づくり』2,310円(税込)
●芦澤清音[著]『子育てと健康シリーズ30 発達障がい児の保育とインクルージョン』1,680円(税込)
●『月刊 クレスコ』9月号 no.126 500円(税込)
●『放送レポート』9月号 no.232 500円(税込)
書店様向けに毎月お送りしている新刊案内です。以下からダウンロードしてご利用ください。
大月書店新刊案内2011年11月(PDFファイル)
http://otsukishoten.hondana.jp/files/shinkan/otsuki2011-11.pdf
(2011.10.24)
「オックスフォード科学の肖像」シリーズ(全21冊)の完結を記念して、下記の書店様にて「伝記で学ぶ科学者という生き方」フェアを開催中です。
ジュンク堂書店新宿店では、シリーズ全21冊とともに、サッカー日本代表・長谷部誠選手の座右の書『アインシュタインは語る』(小社刊)や『世界を知る101冊――科学から何が見えるか』(海部宣男著、岩波書店刊)など、読者を科学の楽しみへと誘う入門的な本を展示しています。ぜひお立ち寄りください!
■ジュンク堂書店新宿店 10/1~ 現在開催中
6階、理工書フロア・レジ横フェア台にて
http://www.junkudo.co.jp/tenpo/shop-shinjuku.html
■ジュンク堂書店福岡店 10/19~ 現在開催中
3階、理工書フェア台にて
※いずれも1カ月~1カ月半ほどのあいだ開催の予定です。
★「オックスフォード科学の肖像」シリーズ全21冊はこちら
「このシリーズはトップレベ ルの科学者やサイエンスライターによって書かれた、若い読者から 一般向けの科学的な伝記である。その人物の人となりと同時に、発見に導いた思考のプロセス をよく調査・吟味したものとなっている。随所に図版が盛り込まれたこの伝記シリーズには、入門書として最適な専門的知識と、その業績によって私たちの自然 世界への理解を形づくった科学者たちの魅力的で説得力のある人物伝の両方が盛り込まれている」 オーウェン・ギンガリッチ(編集代表)
英国での「暴動」に続き、アメリカで巻き起こった若者たちのデモ。「ウォール街を占拠せよ!」を合い言葉に、高い失業率や貧富の格差に対する不満が爆発しています。
ツイッターやフェイスブック等の新メディアでつながった若者の「反乱」は、中東の「ジャスミン革命」から先進国へと波及しているようです。
日本でも反原発デモが拡大するなか、これらを結びつけるものは何か? こうした動きは単なる「騒乱」で終わるのか、あるいは新しい政治を生み出すのか? 等々を考える上で役立ちそうな書籍を選書しました。
《書店様へ》FAX注文書をご用意しました。ダウンロードしてご利用ください。
《選書リスト》
【A】「反乱」は何を要求しているのか
カレ・ラースン 『さよなら、消費社会』
★ウォール街占拠デモの呼びかけ人カレ・ラースンの主著。消費社会をクールに変える「カルチャー・ジャム」の思想と手法とは。
主要紙に載った著者へのインタビュー記事など
東京新聞10/8
読売新聞10/16
毎日新聞10/5
毎日新聞10/4 夕刊
ナオミ・クライン 『新版 ブランドなんか、いらない』
★北米の若者世代のオピニオンリーダーのデビュー作。グローバル化が途上国と先進国の双方にもたらした貧困に立ち向かう反グローバリズム運動のうねりを活写。邦訳の待たれていた近著『ショック・ドクトリン』(岩波書店)とともに!
堤未果 『アメリカは変われるか?』 クレスコファイル 2
★「貧困大国」といわれながらも、アメリカ全土でたくましく活動する草の根の市民運動をルポタージュ。
【B】日本で、世界で。呼応する「反乱」
山本三春 『フランス・ジュネスの反乱』
清水直子・園良太 『フリーター労組の生存ハンドブック』
【C】「反乱」の背景にあるもの
T.ウィリアムズほか 『アップタウン・キッズ』
F,カートメルほか 『若者と社会変容』
中西新太郎・高山智樹編 『ノンエリート青年の社会空間』
各書籍の詳細は以下のリンクをご参照ください。
エピローグ 医学と詩学とのつながり
神山復生園 藤井俊夫さんの詩、その他
現代の宗教性
詩人・大江満雄と、ハンセン病療養所の詩人たちの交流の軌跡をたどる旅の記録の連載も、今回で最終回である。
大江が編集したハンセン病療養所の詩人たちの詩のアンソロジー『いのちの芽』(三一書房、1953年)には、8カ所の療養所の73人の詩人たちの作品が収められており、これまで7カ所の療養所の詩人たちについて紹介してきた。
残る1つの療養所が、静岡県御殿場市にある神山復生園である(ほぼ同一地域に、もと傷痍軍人のハンセン病患者たちを専門に集めた国立駿河療養所がある)。1890年にフランス人宣教師によって開設されたカトリック系の私立療養所で、これは、現存する日本最古のハンセン病療養所でもある。
この療養所から、ただ1人だけ、藤井俊夫さん(1917年生まれ)の詩が2篇収められている。
『いのちの芽』に掲載された略歴によれば、藤井さんは鹿児島県の商家に生まれた。旧制中学中退。1945年頃、復生園に入園。カトリック信者。日本カトリック詩人会誌『火』の会員。『いのちの芽』出版の1953年当時は、36歳であった。
その後の消息については確認できていない。
『いのちの芽』の最後をしめくくったのは、藤井さんの次の作品であった。
雪の朝 藤井俊夫
鐘が鳴る
清浄な
山里の朝の道に
天から 霏々と降る
この雪原の
ひそかさ
聖堂の窓辺による
思念
雪には
あでやかな光も
心をさわがせる風の
そよめきも ない
ただ修道女の心をおおう
神性の
純白
神の雪が
すべての人びとに ふって
祈りが わいて
世界の人びとが ほんぜんと
武器を捨てる日を
一心に祈ろう
ハンセン病を病んだ人たちのなかには、宗派を問わず、自己の生き方と宗教について思索を深めた者が少なからずいる。
大江が神山復生園を訪ねたという記録を、私は目にし得ていない(駿河療養所も同様)。ただし、以下のように、作品を通して、大江は藤井さんの作品から、その宗教性について注目していたことがわかる。
「復生園の藤井の詩はカトリック文学徒として修道士的な生活の中で詩作していますから、神にとらわれたもののつぶやきとしてみるべきでしょう。軍備全廃をいっています」(大江『いのちの芽』解説)。
そしてこの「宗教性」を持つ詩とは、藤井さんひとりにとどまらず、ハンセン病の経験を持つ詩人たちの作品から抽出できる典型のひとつといってもよかった。
「このような作品にはこの時代の宗教的な型があると思います。藤井はカトリックの復生園で修道士的の(ママ)生活をしています」(大江「ハンゼン氏病者の詩」『芽』〔第2次『思想の科学』〕1953年5月号)。
藤井さんの詩は、宗教的ではあるが、自分をとりまく自然や生活、世界情勢といった現実世界について、見失うことはないと思わせる。自らもキリスト者として生きた大江と、藤井さんとが出会っていれば、どのような対話がなされたか興味深いが、それは実現しなかった模様だ。
東北2園―大江が訪ねなかった療養所の詩
大江が訪ねることのなかった国立療養所は、このほか、東北地方の2園(松丘保養園、東北新生園)と、奄美沖縄地方の3園(奄美和光園、沖縄愛楽園、宮古南静園)である。
本連載では、大江とつながりのある療養所だけを取り上げてきたが、そのことで目が向けられなくなってしまうかもしれない他の療養所の詩人の動向についても、連載の最後に簡単ながら見ておきたい。
宮城県登米市にある東北新生園は、詩人・高橋たか子が詩の選にあたった(私は初め、高橋和巳夫人の高橋たか子のことだと思っていたが、どうやら宮城県出身の詩人・菅原克己の姉で、同姓同名の詩人・高橋たか子のことであるようだ。この件に関して情報を求む)。
合同詩集『樹氷』を1961年に出している。
青森市の松丘保養園については、大江とも親交の厚かった福島政美さん(1932~2003年)からうかがった話を、連載第2回目に紹介した。
福島さんは、1959年、群馬県草津の栗生楽泉園から松丘保養園に転園したが、その頃、青森の入園者たちは生きるのに精いっぱいで、およそ文化的な生活からは縁遠い人たちばかりだと映ったという。昼間から酒を飲み、喧嘩、博打に明け暮れる療友たち。
これではいけないと、福島さんは、さまざまな文化活動を開始し、「刻(こく)」という詩のサークルを主宰した。
藤田三蔵さん、天地聖一さん、関弘さん、堀由紀子さん、村木重信さんといった入園者が参加したという。青森市や弘前市の詩のサークルのメンバーとも交流した。
ガリ版で詩集を出したりしたが、1964年に『とつぱれ』(津軽弁で「おしまい」の意)という合同詩集を出して活動を終えた。
夜の街について(二) 福島まさみ
華麗な衣装を纏い 夜の街を流れる異教徒の 中
のおれ マグダラのマリアに淫らな感情を持つお
れ 背信を働く信徒のおれ でもやめられないお
れ
涙を流しながらキリストの足を洗う女 故あって
の祈りは美しいといえるのか
母の塩辛い涙 ほほずりの面影 窓ガラスに映る
影の影 街の中で完全に異教徒になりさがったお
れ でもやめられないおれ
殺すおれ
姦淫するおれ
盗むおれ
いつわりの証しをするおれ
むさぼるおれ
(略)
蝉の亡きがらの空洞のブロンズ像 満しきれぬ受
洗盤の水満つることなき器に涙を流し満面と堪え
る御卓の卓に与った小羊と背徳のおれ 矛盾する
おれ でもやめられないおれ
いま祈る思いでイースターエッグの殻をむくおれ
自分をむくおれ あなたをむくおれ。
(『とっぱれ』松丘保養園合同詩集、1964年)
福島さんの宗教観が濃厚に漂う作品である。福島さんは私がお話をうかがった晩年には、プロテスタントのクリスチャンとして、牧師の資格も得て活動をされていた。
この詩が発表されたのが、福島さんが32歳になる年である。福島さんの若き心の内に、この詩のような情念が渦巻いていたことがわかって愕然とする。
連載第5回で取り上げた、大江の「天使とサタンの詩論」が思い出される。
「元来天使と言うものは悪に弱いもので、今日の社会では生きてゆけないと思いますから、私は天使的なものとサタン的なものとを共有した詩人をよけいに注意いたします」(大江「『光の杖』の心的記録性」『楓』1955年7月号)。
善と悪のはざまでもがき苦しむなかなら、生命力のある新しい自分を創造することができる。
松丘保養園で合同詩集が出されたころ、福島さんは自治会の文化部長をつとめており、園創立50年記念の文芸募集の詩の選を大江満雄にお願いしたことがあるという(私は、この選評を確認していないのだが)。そういったかたちで、大江は最北端の療養所の詩人たちとも、わずかばかりではあるが、関係を持ったことが想像できる。
奄美沖縄3園―大江が訪ねなかった療養所の詩
残る、奄美・沖縄の3園(奄美和光園、沖縄愛楽園、宮古南静園)についてはどうか。
大江はこれらの療養所に足跡をしるすことはなかったが、九州の療養所にいた沖縄出身の詩人の作品に、目をとめている。
太平洋の孤児 南野潔
僕のふるさと琉球は
太平洋の孤児
すこししか残っていない
小禄村の農民は
ブルドーザーの前に坐して
土地を守ろうとした、が
土地収容!
立退き命令!
住民は怯えながら生活することに馴れている
琉球髷(カンプ)も芭蕉布もなくなった
梯梧(でいご)の花もガジマルの新緑も
自分の詩をうたおうとしない
だが詐欺と殺人
肉を売る者は増えた
日の丸の旗は箪笥(たんす)の底に
虫にくわれ埃にまみれている
幼稚園生の康坊が
「これはなあに?」
小学生の光ちゃんは
「虫にくわれた風呂敷よ」
と答えた
父は黙って見比べていた
琉球はいつまでも
孤児だろうか!
継子だろうか
母親があるはずだが
(『姶良野』1954年7月号)
この詩について、大江は次のように述べる。
「敬愛園〔鹿児島〕や恵楓園(熊本)には琉球出身の人が、かなりいる。敬愛園に五十人いると思ってもまちがいではないだろう。琉球沖縄には二つのハンゼン氏病療養所、愛楽園、宮古南静園がある。(略)南野潔の、この詩は、詩として、とくに優れているとはいえないが、報道的真実性をもっているといえよう。首里出身の神山南星は、『少年の頃たのしく泳いだ那覇港は原子兵器の荷揚港となった』と嘆いている」(大江「療養所の詩 姶良野詩の会」『現代詩入門』1956年11月)。
このように、沖縄出身の詩人たちによる作品も、大江の視野にはとらえていたことがわかるのだが、一般的には、奄美・沖縄の療養所における詩の活動は、まったく記録に現れない。詩集を出したという例も、私は知らない。これはいったいどういうことなのか?
私は沖縄愛楽園を訪ねたおり、入園者の眞栄田義全さん(1930年生まれ)から、次のような話を興味深く聞いた。
「沖縄では、詩心がある人はみな琉歌をつくったんです。だから文芸としての詩歌は育たなかった。琉歌が文字に残っていれば、内地の詩人たちの詩集に劣らない豊かな作品として後世に伝えられたでしょう。でも、琉歌というのは、歌ったらおしまいで、なかなか文字に残りませんからね」。
沖縄の詩歌の状況について、ひとつの側面を言い当てていよう。
けっして本人からは口にしなかったが、眞栄田さんをよく知る人によれば、彼は指折りの琉歌の名人なのである。このとき眞栄田さんは、三線を弾きながら、自作の琉歌を披露してくださった。テープに録音したものが手元に残っているが、沖縄の言葉を文字に書き起こすことは、私のヒアリング能力では困難であり、残念だ。
大江がこうしたハンセン病療養所の入園者たち自作の琉歌を聴いたなら、どういう感想を持ったであろうか。そんな想像も巡らせてしまう。
自己と非自己の相克―島田等さんの大江満雄論
連載をしめくくるにあたって、大江がハンセン病療養所の詩人たちと40年にわたる交流をつづけるに至った、その動機について考えてみたい。このような交流を支えていた内的要因はなにか?
大江とも親交があった長島愛生園の島田等さん(1926~1995年)には、未完の「大江満雄論」がある。未発表の原稿が、島田さんの死後、遺稿集としてまとめられて陽の目を見たものだ(宇佐美治編『花 島田等遺稿集』手帖社、1996年)。
島田さんは、「人間だれしも、あれは自分ではなかったといいたい過去の、一つや二つは持っているだろう。転向とか戦争詩の問題を抱える詩人ならなおさらである」といい、戦後の大江満雄にとって、戦時中に抱え込んだ転向・戦争詩の問題が、戦後を生きるうえでも避けて通れない課題となっていたことに注目する。
「自分の中に非自己をかかえこむということは、その生にとって死をかかえ込むことである。死との共存が生だということは、詩人にとって何を意味するか」。
「自分がやったことを措いて自分はないというのは、大部分の人間にとって辛い話である。挫折を重ねて、大江は自己の行為の中にあらためて自己を見ざるをえなかったであろう。それが誠実であればなおのこと、自己の行為の中にできるだけ自己を見まいとする日本の精神風土の大勢の中で、かれは傍流にならざるをえなかった」。
「病むこころが病む人々に出会わせた」。
自己の内に認めたくない自己を抱え込んで生きざるをえないところに、大江満雄とハンセン病者が共鳴し合う基盤があったと、島田さんは見る。島田さんによる大江論の核心に当たる部分であり、ハンセン病者として生きた島田さんにしか書けないユニークな視点である。
戦後、生きることの再構築を課題とする大江にとって、ハンセン病療養所の詩人たちは、単なる詩の指導の対象などではありえなかった。詩作を通して、互いに影響し合う関係、時として大江の側が、ハンセン病の詩人から深く学ぶ関係がそこに成立した。
大江がハンセン病の詩人たちに協力するのは、「たんなる同情ではなく、現代そのもののもつ病患、現代文学の病患克服のたたかい」(『いのちの芽』解説)であり、「病者のためだけでなく、文学の問題を追及」(同上)するためとされた。
「大江は『いのちの芽』のあとも、死をむかえる日まで、療養所の詩人たちとのかかわりをつづけた。それは再生を迫られた日本人の手探りの一つだった」と、島田さんは大江の生涯を評している。
医学と詩学とのつながり―生き方の再構築のために
いっぽう、このことについて大江自身はどのように述べているであろうか。
ハンセン病療養所の詩人たち個々の人と作品について大江が論じた文章は、本連載で紹介したとおり多数あるのだが、なぜ自身がハンセン病者と向き合うのか、そのことについて明示的に述べた文章は案外少ない。
大江による「医学と詩学とのつながり」(『看護学雑誌』1968年12月号)というエッセイが残っている。それだけを読むと非常に難解なのだが、島田さんの「大江満雄論」を知ったうえで読むと、補い合って理解できるところがある。
大江はこのエッセイで、「病気の意義について」「詩学と医学とのつながり」という2つの課題について答えようとしている。
大江は自身の大病の経験について、「終戦直後の病気は腎臓出血で、精神的・肉体的疲労が原因でした。元来、カラダは健康のほうでしたから、精神上の悩み、思想上の悩みが病気を重くしたこと、じぶんでは、そう思いました。/(略)/(このときの)病気は、フクザツで、幾つもの病気が重なっていましたから、自分が自分のために精神医の役割をしなければなりませんでした」と振り返っている。
これだけでは何のことかよくわからないが、「精神上の悩み、思想上の悩み」とは、自身の転向問題に苦しんだことを指しており、そこからいかに立ち直るか、という課題について述べていると見て間違いないであろう。
そのころ、厚生省の広報係にいた詩人でもある原田正二氏から、全国のハンセン病療養所の人びとの作品を見せられ感激したことが、『いのちの芽』編集のきっかけとなった(第1回連載も参照)。このときの心境を、大江は次のように述べている。
「つまり、自分が病気で苦しんだから、(略)ライ療養所の人びとに近づいて、一緒に考える方法をとったのです。/『病気』は“イヤ”なものです。“こわい”ものです。が、しかし、病人の詩の中に健康な心を見出すとき、『健康な肉体に健康な精神が宿る』などというコトバは、ウソになります。(略)人は『病気』をしてこそ人間らしくなる、ということも、ライ・結核の人びとを知ってから知ったので、その出会いに意義を感じています」。
島田さんの大江論を知ったあとで読めば、「自分が病気で苦しんだから、(略)ライ療養所の人びとに近づいて、一緒に考える方法をとった」とは、単に「腎臓出血」のことだけではなく、「思想上の悩み」を含んでいると了解できる。「人は『病気』をしてこそ人間らしくなる」とは、幾重にも含蓄のある大江の言葉であろう。
ここまでが、このエッセイの「病気の意義」について述べた前半である。さらに後半で大江は、「医学と詩学とのつながり」という、ユニークなテーマを展開する。
「古代ギリシャのアリストテレスの『詩学』では、『瀉泄』(カタルシス)を重んじています。カタルシスとは、医学上の『カタルシス』からきた隠喩(メタホア)だといわれています」と、大江は「カタルシス」をキーワードに論を進めてゆく。
「ヒッポクラテス派の古代ギリシャの生理学者は、人間の体は血液、痰汁、黄胆汁、をふくみ、これらの四(ママ)体液の正しい割合と混合とが健康を形づくり、不正規な配合と不適当な割合とが病気を作るものとし、過多な体液は適当な瀉泄(カタルシス)を行い体内から排泄しなければならぬという」のが、古代ギリシャの「瀉泄(カタルシス)」学説であった。
このことから大江は、病理学上の「瀉泄」と同様に、芸術上の「カタルシス」も、「魂の中に鬱積している情緒を釈放することで、(略)情緒を何らかの不純分子から清浄にすると解釈」できると言う。
「私が医学と詩学の“つながり”をいうのは、(略)アリストテレスの詩学のカタルシス説を発展させて、新しい『詩学』を求めているからです」と、大江は結論づけている。
大江が求めているとする「新しい『詩学』」こそ、ハンセン病療養所の詩人たちとともに、40年の歳月を掛けて手探りしつづけたものであったろう。大江にとってそれは、戦後、自身の生き方を再構築することでもあった。
大江がハンセン病療養所の詩人たちと取り組んだ課題は、忘れられがちとなってはいるが、今もって古びてしまったわけではないと私は思う。
大江が取り組んだのは「詩」という限られた分野ではあるが、彼の「カタルシス」論は芸術のどの分野についても当てはまる。いや、病気をしない人はいないであろうから、現代を生きるどんな人びとにとっても、他人ごとではなくなる。詩学の問題が、生き方の問題として立ち上がってくる。
大江とハンセン病療養所の詩人たちの交流の軌跡から、私たちが受けとることのできる射程は、それだけ広いと言える。
大江満雄の20回目の命日(10月12日)を前に、この拙い連載を終える。
(1996年2月20日、松丘保養園にて 福島政美さんより聞き書き)
(2002年4月22日、沖縄愛楽園にて 眞栄田義全さんより聞き書き)
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【関連記事】
大江満雄とハンセン病者
【参考文献】
大江満雄「ハンゼン氏病者の詩」『芽』(第2次『思想の科学』)1953年5月号
大江満雄「『光の杖』の心的記録性」『楓』1955年7月号
大江満雄「療養所の詩 姶良野詩の会」『現代詩入門』1956年11月
大江満雄「医学と詩学とのつながり」『看護学雑誌』1968年12月号
『樹氷』東北新生園合同詩集、1961年
『とっぱれ』松丘保養園合同詩集、1964年
島田等「大江満雄論」宇佐美治編『花 島田等遺稿集』手帖社、1996年
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大江満雄(おおえ みつお)
1906年高知県生まれ。15歳のとき水害と貧困苦により一家離散し、父とともに親戚を頼り上京。原宿同胞教会にて受洗。石版工として技術を学ぶかたわら、生田春月主宰『詩と人生』準同人となり詩を書き始める。プロレタリア文学運動が盛んになると、その中心で活躍。そのため治安維持法違反で検挙、獄中転向。以後、戦争詩によって詩壇で名をなす。戦後はヒューマニズムを基調とする抒情的思想詩を多数発表した。詩集に『血の花が開くとき』(1928年)、『日本海流』(1943年)、『海峡』(1954年)、『機械の呼吸』(1955年)、『自選詩集 地球民のうた』(1987年)。この他、ハンセン病者の詩のアンソロジー『いのちの芽』編集・解説。多くの評論、児童文学の作品ものこした。1991年心不全により死去。享年85。没後、『大江満雄集―詩と評論』(思想の科学社、1996年)が刊行された。
木村哲也(きむら てつや)
1971年生まれ。中学3年のとき、東京宿毛会(東京近郊在住の高知県宿毛出身者の集まり)席上で大江満雄と出会う。学生時代、『大江満雄集』編集に加わる。以後、全国のハンセン病療養所を訪ね、大江満雄とハンセン病者による詩運動について取材。「紙碑をたてよう―『大江満雄著作集』刊行の夢」(『土佐すくも人』第11号、1994年)、編集・解説『大江満雄集―詩と評論』(思想の科学社、1996年)、「大江満雄とハンセン病者―交流の軌跡」(『歴史民俗資料学研究』第3号、1998年)、「大江満雄と島比呂志―〈来者〉の声をきく」(『火山地帯』第116号、1998年)、「元『不良少年』による交流への希求―書評・国本衛『生きて、ふたたび』」(『ハンセン病・国家賠償請求訴訟を支援する会会報』第9号、2000年)、「大江満雄と光明園の詩人たち」上・中・下(『楓』第476~478号、2000年~2001年)、編集・解説『癩者の憲章―大江満雄ハンセン病論集』(大月書店、2008年)ほか。
教科書採用検討用に小社刊行物の献本をご希望の方は、以下の「教科書採用(見込み)通知」をクリックしていただき、必要事項をご記入の上、ご送信ください。ご送信いただきました場合は、こちらより受信確認メールが届きます。なお、恐れ入りますが、1回にお送りできる献本は3種類以内の書籍に限らせていただきます。
http://www.otsukishoten.co.jp/careers/
書店様向けに毎月お送りしている新刊案内です。以下からダウンロードしてご利用ください。
大月書店新刊案内2011年10月(PDFファイル)
http://otsukishoten.hondana.jp/files/shinkan/otsuki2011-10.pdf
(2011.9.15)
2011年9月の重版情報を掲載しております。
●『障害を知る本⑦ 自閉症の子どもたち 』30刷
●『乳児の発達診断入門』20刷
●『指しゃぶりにはわけがある』17刷
●『小黒三郎の組み木』17刷
●『歴史としてのベトナム戦争』12刷
●『私立大学の財政分析』11刷
●『新装版 子どもの絵の見方、育て方』10刷
●『はじめて学ぶマーケティング [基礎篇]』6刷
●『現代の食と農をむすぶ』4刷
●『傷を愛せるか』4刷
●『GNH もうひとつの〈豊かさ〉へ、10人の提案』2刷
●『デートDVと恋愛』2刷
●『原発・放射能図解データ』2刷
「来者」の声を受けとめる
星塚敬愛園、島比呂志さんに聞く
1998年7月22日~23日、鹿児島県鹿屋市にあるハンセン病療養所、星塚敬愛園に島比呂志さん(1918年生まれ)を訪ねた。蝉時雨が降り注ぐ、土用の暑い日であった。
1996年3月のらい予防法廃止と前後して、ハンセン病関連の図書が何冊も刊行されたが、1950年代からハンセン病療養所の詩人たちと交流をつづけた大江満雄の事績にふれたものは皆無といってよかった。
そんななかで、ただ1人、ハンセン病者にとっての大江の存在の大きさを静かに語りつづけてきた方がいる。それが島さんであった。
今日では、島比呂志の名は、らい予防法の不当性やハンセン病回復者の人権擁護を訴える評論活動、あるいは文芸同人誌『火山地帯』の主宰者だった方として、全国的に知られている。
しかし、大江の仕事を追跡してきた私にとっては、何よりもまず、島さんは詩人なのである。ハンセン病者の詩のアンソロジー『いのちの芽』(三一書房、1953年)の編集にあたって、星塚敬愛園代表の編集委員として、また大江の詩の代表作「歌の中の歌」(後述)成立に重要な示唆を与えた詩人として、ずっと気になる存在であった。
1950年代にはじまる、大江と島さんとの交わりは、ひょっとすると、その後のハンセン病者の文化活動、政治運動に決定的な影響を与える重要な出来事であったといえるのではないか、というのが私の読みであり、今回の訪問は、島さんご本人に大江との交流のありようを聞かせていただくこと、それが目的であった。
空はアイヌのいれずみ色
大江は、『いのちの芽』が出た3年後の1956年7月に、初めて敬愛園を訪れている。
「そのころの集会場というのは、壇があって、健康な人は上に、椅子があるんです。普通はそこへ座って。ぼくらはそこへ上がることは許されず、低いところへ、畳の上に座らされるんです。あいだには柵がありました。大江さんは上には上がりませんでしたね。みんなと一緒にあぐらをかいて、車座になって話をしたのを覚えています」。
島さんは、そう当時の様子を振り返る。
「鹿屋の詩の同人誌に『木馬』というのがあって、今も主宰者が変わってつづいていますが、当時は瀬戸山観一郎というのが1人でガリ版を切って出していました。その詩のグループが加わったんですよ。一緒に大江さんを囲んで。大江さんが詩の朗読をしたのを覚えてるな。詩の朗読って、こういうふうにするのかなあと、非常に感情を込めて朗読された。それだけを覚えています」。
1956年7月、星塚敬愛園にて。後列中央のベレー帽姿が大江満雄。前列左から2人目が島比呂志さん。
『いのちの芽』には、敬愛園からは、以下の5人が参加している。筆頭の島比呂志さんの6篇が最も多く、以下掲載順に、次の方たちである(カッコ内は、『いのちの芽』掲載作品数と、島さんのコメント)。
松田一夫(2篇。1928~1991年。石原一夫。『火山地帯』大江満雄追悼号<第89号、1992年1月>のゲラが出た12月1日に亡くなった)、北河内清(5篇。1924年生まれ。島さんにお話を聞いた当時も詩を書いていた。『木馬』や『姶良野』が主な発表の場)、佐藤俊二(1篇。1927年生まれ。上二郎<かみじろう>。誰かのつきあいで詩を書き始めたのか、その後詩を書き続けたわけではない)、蘇我稔(2篇。1910~1977年。一風変わった詩を書いていた。大江も興味を示して、彼の部屋へ島さんの案内で2回くらい行っている。期待していたが、『火山地帯』復刊号が出る前に亡くなった)。
敬愛園にはもう1人、忘れてはならない詩人がいる。つきだまさしさん(1923年生まれ)であるが、『いのちの芽』には参加していない。つきださんは長い長い詩句を持ち味とした作風で、大江はどちらかというと言葉を削りに削った詩を好んだため、つきださんの作風がお気に召さなかったのではないかと島さんは推測している。
彼らと大江との関係は、島さんが自治会の文化部長をつとめていた1949年にさかのぼる。副部長につきだまさしさん、書記に松田一夫さんがあたっていた。園内誌『姶良野』が詩の発表の場となっており(ちなみに詩の選者は出海渓也)、それが未知の大江の目にもとまったのではないか、という。
「ただ、大江さんの名前は、『いのちの芽』の前から知ってたんですよ。1948年に、四国出版から『銀の鈴』という童話集を出した縁で、四国出版から出た尾崎徳という人の詩集『鞭のうた』が送られてきたんですね。その解説を買いてらしたのが大江さんだった。その後、1950年くらいかな、ぼくは気づかなかったんですが、友人が、大江満雄という人が、『詩学』という雑誌で、あんたのことを褒めてるよ、と教えてくれた。『定山渓回想』という詩で、のちに『幻想』と改題して『いのちの芽』に載ったものです」。
『銀の鈴』
幻想 島比呂志
ほの暗い渓流のほとり。
白樺の木の葉が揺れる。
空はアイヌのいれずみ色。
私は檻で見た熊を想像した。
私は現代へのあこがれを失い、
毒矢を射る古代を想っているのだ。
わたしの胸の中には、
溶岩のような呪いがあるのだ。
だが 天空へ水晶のような橋をかけよう。
太陽より未発見のものをかちとろう。
わたしたちのための癩院は、熊の檻ではない。
未来への想像があり希望があると、もうひとつの心がいう。
大江はこの詩について、次のように評した。
「とくに『幻想』という詩の『空はアイヌのイレズミ色。私はオリに入っているクマを幻想した』という詩句にはレプラの書いたものとしてのリアリティがあると思った」(大江「オベリスク」『詩学』1950年12月号)。
ちなみにこれは、ハンセン病者の詩について書かれた大江の文章のなかで、確認しうる限りではもっとも早い文章である。
「東京高等農林学校(現東京農工大)の学生時代、1937年ごろですかね、実習で東北、北海道の牧場をまわったことがあるんです。馬の種付けを見学したりしながらね。札幌にある定山渓温泉で、アイヌの人が木彫りの熊を彫って、お土産に売ったりしていました。そのときの体験から出た詩なんですがね」。
島さんは、1918年、香川県観音寺生まれ。1947年、ハンセン病を発症し大島青松園入所。翌1948年、星塚敬愛園に転園。入所前の、学生時代の貴重な思い出を詩にしたものであった。
「<空はアイヌのいれずみ色>という表現が、個性的で新鮮だと、大江さんがほめてくれた。それから、大江さんは詩集『海峡』(昭森社、1954年)に『歌の中の歌』という詩を書かれて、ぼくとの共同制作、ということになるんです」。
歌の中の歌 レプラといわれるハンゼン氏病者の詩 大江満雄
空はアイヌのいれずみ色
わたしはオリの中の熊だ
―蝶になりたい。
いやいや わたしは
マユの中で人を憎悪しつづけているサナギだ
―蛾になりたい。
わたしは煮えくりかえる釜の中で死んでゆくサナギを思う。
褐色のミイラを思う
歌の中の歌を思う。
この自作の詩について、大江は、次のように書いている。
「『歌の中の歌』とは、最も勝れた歌(詩)という意味です。わたしは、ハンセン病患者の中に『人の中の人』を見、その作品の中に、『歌の中の歌』と言いたくなった時を忘れるなと自分に言いきかせるために書いた詩ですが、この詩は島比呂志との共同制作ということもできます」(大江満雄「解説―希望のメッセージ」島比呂志著『来者のこえ―続・ハンセン病療養所からのメッセージ』社会評論社、1988年)。
大江は「共同制作」と述べており、島さんもその言葉を否定してはいない。しかし、これは言葉そのままの意味の「共同制作」と言えるものであろうか。島さんの詩句に触発されて、その言葉をとりこんで詩をもって応答しようとする、かなり変わった詩作の在り方である(前回の連載で触れた、菊池恵楓園の西羽四郎さんの詩「癩憲章」と、大江の詩「癩者の憲章」の関係も同様)。ここでこれ以上のことを展開する用意はないが、重要な問題がここに潜んでいることだけは指摘しておきたい。
「ぼくはそれ以後、詩が書けなくて。<空はアイヌのいれずみ色>を超える表現が浮かばないんですよ。ただ、大江さんは終生ぼくのことを<詩人>とか<詩友>とか呼んでくれましたね。晩年まで詩集を出せ、とすすめられたけど、そのまま出せなくて」と、島さんはバツが悪そうに語る。
しかし、「幻想」と「歌の中の歌」との出会いが、その後の島比呂志の文筆活動を方向づけることになったとはいえるだろう。作品を通じて社会へ向けてメッセージを送るという姿勢は、このとき以来、変わっていない。
島さんは、大江に激賞された詩句にとらわれて詩は書けなくなってしまったというが、その後、自己表現の手段を小説や評論に移してからも、大江との交流は不即不離のかたちでつづいてゆく。
文芸同人誌『火山地帯』の創刊
大江の2度目の敬愛園訪問は、1962年だという。
その間、島さんは、詩と小説とエッセイを収録した『生きてあれば』(講談社、1957年)を出版している。大江の知り合いの編集者が講談社におり、島さんとのあいだをとりもった。解説も、思想の科学研究会をとおして大江と親交のある鶴見俊輔氏が執筆した。
「8000部刷ったんですが、北海道から沖縄まで、手紙がいっぱい来るんです。それまでぼくを中心に12~13人で創作研究会というのをつくって、ナマ原稿を回覧することをしてたんです。月に1、2回集まって、合評会やるんですよ。3~4年やったのかな。その仲間が、『生きてあれば』の反響にびっくりしてね。こんなことしてたらダメだ、同人誌を出そうじゃないかということになって」。
こうして島さんの代名詞ともいえる、『火山地帯』の創刊につながる。『生きてあれば』出版の翌年、1958年9月のことである。
「第10号が出るころかな、『文学界』で同人誌の小説ベスト5にぼくの作品が取り上げられたり、『新潮』で11篇選ぶ小説の公募にぼくの『熊』が選ばれたりして、『講談倶楽部』にぜひ書いてくれ、というので原稿依頼が来たりしたんです。プロになれば、社会復帰できると熱をあげましてね。でも、あとがつづかん。それはむつかしいと、方向転換して、同人誌に力を入れることにしたんです。地方に根をはってでも、自分にしか書けないものを残すのが作家の使命じゃないだろうかと」。
主宰者の島さんの他にも、『火山地帯』の同人の中から、敬愛園職員の小牧永典さんの小説「狐宴」が芥川賞候補に挙がった。また小牧さんの「影絵」という作品が再び芥川賞候補に挙がったりもした(小牧永典はペンネームで、本名は小牧一二。前任の菊池恵楓園で広報係をしており、そのときすでに大江とつながりがあったことは前回の連載で述べた)。
大江の2度目の敬愛園訪問は、その小牧さんに会うのが目的であったため、島さんに詳しい記憶はない。
大江は厚生省の共済組合の会員による文芸誌『共済文芸』の詩部門の選者を1956年から1990年までつとめており、当時、小牧さんの詩が特選に選ばれるという関係もあった。小牧さんはその後、職員として指宿の病院、沖縄の精神病院、宮古島のハンセン病療養所などを転々とされ、定年を前に退職したという。
注目すべきは、大江という人は、患者のみに目をやって、職員を敵にまわすという流儀からは遠い場所にいたということである。あくまでも患者の側に立ちながら、しかし職員とともに、粘り強く、社会を少しずつつくり変えてゆこうという理想をもっていた。
「療養所・病院の詩とは患者の詩と職員の詩を合わせて、いうものでしょう」と、大江は書いている(大江「かえりみて選ぶということ」『共済文芸』第20集、1976年3月)。
今となってはなんでもない言葉だが、東西冷戦が厳然とあり、極端な左翼文学理論が幅をきかせていた時代、大江の考えは時に日和見と映り、周囲に正当に評価されなかったのではないだろうか。
大江の2度目の訪問で、小牧さんとどんな言葉が交わされたのかは興味深いが、残念ながら、これ以上詳らかにしない。
島さんは、『火山地帯』20周年記念の同人作品集を『ひとつの世界』(火山地帯社、1978年)と名付けた。患者5人、非患者5人の随筆・小説が収録されており、467頁からなる大部なものである。
タイトルは、大江満雄の詩「一つの世界」(『造形文学』1949年7月。「一つの世界を」と改題され、詩集『海峡』昭森社、1954年に収録)からとったのだという。大江の理想が、島さんの作品集の編集姿勢、そしてタイトル付けにつながった。ここでは詩集から引く。
一つの世界を 大江満雄
(略)
きみは ぼくが幻想的で
二つの世界の対立の岸べで
勇敢に たたかわない ということを
とがめたいだろう
(略)
けれども はじろう心と
大きく 一致を ねがう心は失わない
(略)
烈しい対立の感情や にくしみの情がわいたときほど
しづかに未来を―一つの世界を―信じて
たえてゆかねばならなかった
『火山地帯』の復刊
大江の3度目にして最後の敬愛園訪問は、1975年10月16日、『火山地帯』を休刊してから10年がたっていた。
「あのとき大江さんが来てくれなかったら、『火山地帯』の復刊もなかったし、らい予防法の廃止を求める文章を書くこともなかったかもしれません」と、島さんは言う。
大江訪問の1年半後、1977年4月に『火山地帯』は復刊した。
「大江さんは、当時70歳にとどく年齢でしたが、94歳まで生きるつもりで仕事の計画を立てている、と話されました。それにはぼくもびっくりして。ぼくは大江さんとは同じ午年で、干支でひとまわり若いんです。まだまだ自分も人生捨てる年齢じゃないんだと、奮い立ちましてね」。
その時の様子を、大江は次のように書いている。
「私は、故郷土佐宿毛市からのコースで九州の佐伯に渡り、鹿屋市の星塚敬愛園を訪ねた時、職員のかたに、訪問の目的を話して協力を求めました。『共済文芸』の選者として職員側の詩作家と、患者の詩人と、合同の座談会をしたい、よろしく、と。/もう忘れられている『いのちの芽』(全国のライ療養所の詩人たちの作品を収録した詩集)のことを話し、私は詩友の島比呂志に会って、その後のことを聞きたい、そのために、なるべくなら園がお許しくださるなら、島家へ泊りたい、奥さんの手料理を久々でたべたい、彼女の話もききたい(略)、と言うと、あっさり『よろしいいですよ』と言ったので、…(略)」(大江「Xにおくる書簡の形をとる詩論―敬愛園訪問のときを想起しながら」『姶良野』1976年盛夏号、7月)。
この、3度目、最後の敬愛園訪問で、大江は島さんの部屋に2泊している。
「あの時の部屋は4畳半ひと間しかなかったんです。家内を入れて3人寝にゃいかんわけですよ。夕飯を食べに迎賓館へ行かれたんですが、1時間もしないうちに戻って来て、今晩からこっちへお世話になるよ、なんて。夜遅くまで話し込んで、午前3時頃寝たのかな」。
この時の模様は、奥様の清子さんも、よく覚えていた。
「とにかく話が好きで、寝かしてもらえなかったの。前に大江さんが来たとき、五目寿司をつくったら喜んで、また食べさせてくれ、それが楽しみだ、なんて。でもね、本当のこと言うと、買い物に行くひまもないくらい、大江さんが話をしようと。立とうとすると、スカートを引っぱって座らされて(笑)。あの頃は鹿屋に行くしか買い物もできませんでしたから、バスも1日に2本あっておしまい。とうとう御馳走も買えなくなって、ありあわせのおかずを刻み込んで、五目寿司にしたのね」。
大江はそれほど熱っぽく、何を語ったのか。大江自身は書いている。
「ライ療養所は一見、美しい風景で、落ち着いた生活しているかのようですが、内的には、フクザツなはずですから、島比呂志に会うとすぐ、全患協のことを聞きました。集団のモラルと個人のモラルとの開きを知る努力をしたのです。ライ療養所の文学とは、職員と患者のものを合わせていうべきと思いますから、たがいに療養所の文学としての協同性を持つ面がなくてはならないのではないか、といいたいのですから、島比呂志のような詩人、作家、随筆家に、園内で孤立せず、変革期のライ療養所を文学的に社会に広く知らせてほしい気持を、示しました」(前掲、大江「Xにおくる書簡の形をとる詩論」)。
短い中に、含みのある言葉がぎっしりと並ぶ。一見落ち着いた療養所も、「内的には、フクザツなはず」とは、通り一遍の取材では出てこない洞察といえるだろう。
「集団のモラルと個人のモラルとの開き」という判断も、後にらい予防法廃止をめぐって全患協執行部の動きに批判を唱えることになる島さんの動きをすでに言い当てている。
「島比呂志のような詩人、作家、随筆家に、園内で孤立」させまい、というのも、ハンセン病者と長らく同伴してきた者にしかできない配慮と言える。
この2泊3日の語らいが、島さんを感激させ、励ましたであろうことは、想像がつく。
来者は追うべし
その後の島さんの旺盛な執筆活動については、周知のとおりである。小説家として、評論家として、問題作を次々と世に問う。出版された単行本は10冊を超えた。
『火山地帯』創刊30周年にあたる1988年には、評論集『来者のこえ―続・ハンセン病療養所からのメッセージ』(社会評論社)を上梓する。大江は解説として、「希望のメッセージ」を寄せた。
「来者」とは、「癩者」と同音の、大江による造語である。
『来者のこえ』
当初、『いのちの芽』は、大江の発案で『来者』というタイトルが予定されていた。しかし一般の人びとにわかりにくいとの出版社の希望もあり、『いのちの芽』に落ち着いたという(大江「詩集『いのちの芽』と予防法改正運動」『愛生』1953年10月号)。
「来者」という言葉は、「往者は諫むべからず、来者は追うべし」(『論語』微子篇)にヒントを得たもので、この古い言葉を新しくして、「ライの詩人」のなかに「来るべき詩人」を見たいのだ、と大江は述べる(大江「来者は追うべし」長島詩話会編『つくられた断層』長島愛生園患者自治会文芸協会、1968年3月)。
「癩」という言葉は、その字形からして、病者を醜いものとする差別の刻印を受けており、医学用語である「ハンセン病」を使うように呼称変更を求める運動が、1950年代から患者たちのあいだで起こり、現在では定着している。
一方で、その言い換えこそが、差別のありようを隠蔽するものだとして内省され、積極的に「らい」という呼称にこだわる動きも、入園者のあいだから起こった(例えば、長島愛生園の詩人・島田等さんによる詩誌『らい』の創刊は、1964年9月)。
大江は、詩人の直感として、まったく独自な文脈で、折りにふれて「ライ者は来者」と、この言葉に新たな意味を持たせて使用することをつづけた。
島さんは、大江のこの言葉を受け止め、後年、自らの評論集に『「来者」のこえ』というタイトルをつけたわけである。『いのちの芽』から35年が経過していた。
巻末に解説を寄せた大江は、「島比呂志は、苦悩の過去から来た来者の声と、自由・平等・友愛の未来の国から来る人の声をきくことのできる詩人・作家の典型だと思います」と述べている(前掲、大江「希望のメッセージ」)。
「ライ者は来者」、この言葉は、一般的にはいまも耳慣れないが、大江がハンセン病者との出会いから何を学び、何を期待したかを知るうえで、重要な意味をもつ言葉である。大江と島さんの、この言葉をめぐる無言のうちにおこなわれたやりとりは、相互の深い理解に裏打ちされていた。
裁判の提起、そして念願の社会復帰へ
その後も、大江と島さんの交流は文通を通してつづいた。
1991年4月、高知県四万十川河畔に完成した、大江の詩碑「四万十川」建立運動にあたっては、島さんもカンパの協力を惜しまなかった。
そのわずか半年後、1991年10月12日、大江満雄は心不全のため、85歳でこの世を去る。
島さんの『らい予防法の改正を』(岩波書店、1991年)が出版されたのは、ちょうどその年の6月のことであり、折しも、らい予防法廃止へ向けて事態が動き出した矢先の出来事であった。
1996年3月、らい予防法が廃止されるまでの紆余曲折については、改めて述べるまでもあるまい。その間、とりわけ島比呂志という文筆家は、厚生省や医学界のみならず、入園者による組織である全患協執行部の対応にまで批判の矢を放つような論陣を張りつづけた。
「大江さんていうのは、こうせい、ああせい、とは言わん人でした。だけど学んだことはいっぱいある。大江さんに代わる人は、ちょっとこの世にいないと言っていいくらいの人でしたよね。今でも、生きていたらどう思われるか、聞きたくなることがたびたびあります」。
島さんは、このときの取材直後の1998年7月31日に、らい予防法廃止以後も、国の責任は明らかになっていないとして、国を相手取り、隔離政策への国家賠償を請求する訴訟を起こした。2001年5月の熊本地裁判決において原告側全面勝訴で決着する歴史的裁判は、島さんのひとことが発端となり、原告13人によって始められたものである。
「大江さんが、生きていれば92歳。ぼくが、ちょうど80歳。まだまだこれからですよね」と、島さんはこのとき笑って語った。
この年、『火山地帯』は40周年を迎えたのを機に、島さんは主宰を退き、編集人は非入園者の同人である立石富男氏に引き継がれた。これを島さんは「同人誌の社会復帰」と呼んで喜んだ(島比呂志「社会復帰」『火山地帯』第116号、1998年10月)。
さらに、1999年6月20日、島さんご自身も、社会復帰のため星塚敬愛園を去り、福岡県北九州市に転居した。52年ぶりの社会復帰であった。
『火山地帯』創刊40周年記念特集号
島さんは、私に向かって最後に、『来者のこえ』の増補版がまもなく出る予定である、と話された。この計画は頓挫してしまったが、このときの島さんの話では、「大江満雄に捧げる小詩集」を増補するつもりとのことであった。
1950年代における詩人としての出会いから、40年余を経て、再び詩人として大江に向き合おうとするものだ。今日では小説家や評論家としてのみ知られる島比呂志の、詩人としての貌(かお)に、読者は新鮮な思いで接することになるはずであった。
大江の解説はそのまま収録し、新たに鶴見俊輔氏による「解説の解説」が加えられる、という構想まで明かされたが、これも実現しなかった。
島さんは、2003年3月22日、逝去。享年84。大江の亡くなった歳に1つ足りなかった。
島さんの詩集刊行の構想はやがて、前出の立石富男氏によって、島さんの死後、実現する。島比呂志詩集『凝視』(私家版、2003年7月)としてまとめられ、陽の目を見ることとなった。
その中の一篇を、最後に引く。初出が不明なのだが、おそらく、島さん晩年の心境をうたったもので、私のもっとも好きな作品のひとつである。
病める樹よ 島比呂志
永遠の中の
一年がなかったら
永遠は存在しないということを
樹よ
よく考えてみるがいい
どこからか吹いてきた悪病に
おまえの枝や葉が
変形し
醜悪になったからといって
絶望してはならない
なるほど
風が吹けば
おまえは
仲間以上の危険にさらされるであろう
雪が降れば
ひとしお寒さが浸みるであろう
けれども
全力を挙げて耐えるがいい
ありだけの生命の火を燃やすがいい
やがて
おまえの生涯が終り
板となり
柱となる日
苦しみに耐えて来た
一年一年が
いかに美しい年輪となり
木目となることであろうか
樹よ
悪病を歎くことなく
ありだけの力で生きるがいい
やがて摂理の鋸にかかる日まで
血みどろに生きるがいい
樹よ樹よ樹よ樹よ
病める樹よ!
それにしても、2人の交流の軌跡をたどってきて思うのは、大江満雄の存在は、単に島比呂志個人の恩人、というにとどまらない、ということである。2人の出会いは、戦後のハンセン病者の文学活動、社会的運動に、決定的な影響を与えたとさえ言えるのではあるまいか。
私にできることは、「来者」のその声を、しっかりと受けとめ、刻み込んでゆくことだ。
(1998年7月22日~23日、星塚敬愛園にて 島比呂志さん、清子さんより聞き書き)
『凝視』
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【関連記事】
大江満雄とハンセン病者
【参考文献】
大江満雄「一つの世界」(詩)『造形文学』1949年7月(「一つの世界を」と改題され、詩集『海峡』昭森社、1954年に収録)
大江満雄「オベリスク」『詩学』1950年12月号
大江満雄「詩集『いのちの芽』と予防法改正運動」『愛生』1953年10月号
大江満雄「歌の中の歌」(詩集『海峡』昭森社、1954年)
大江満雄「療養所の詩 姶良野詩の会」『現代詩入門』1956年11月号
大江満雄「来者は追うべし」長島詩話会編『つくられた断層』長島愛生園患者自治会文芸協会、1968年3月
大江満雄「わくら葉(島比呂志)」『看護学雑誌』1970年11月号
大江満雄「わくら葉(蘇鉄稔)」『看護学雑誌』1970年12月号
大江満雄「かえりみて選ぶということ」『共済文芸』第20集、1976年3月
大江満雄「Xにおくる書簡の形をとる詩論―敬愛園訪問のときを想起しながら」『姶良野』1976年盛夏号、7月
大江満雄「解説―希望のメッセージ」島比呂志『来者のこえ―続・ハンセン病療養所からのメッセージ』社会評論社、1988年9月
大江満雄「詩友たちへの手紙」『火山地帯』第76号、1988年10月(30周年記念号)
島比呂志『銀の鈴』四国出版、1948年9月
島比呂志『生きてあれば』講談社、1957年
島比呂志「発刊の辞」『火山地帯』第1号、1958年9月
島比呂志「『火山地帯』の歴史」『思想の科学』1960年3月号
島比呂志「復刊の御挨拶」『火山地帯』第30号、1977年4月
『ひとつの世界』火山地帯社、1978年2月
島比呂志「人間への道―わが文学半生記(第5回)」『火山地帯』第34号、1978年4月(大江満雄との出会いに言及)
島比呂志「人間への道―わが文学半生記(第11回・最終回)」『火山地帯』第40号、1979年10月(大江満雄の来訪記事)
島比呂志「跣足の詩人―大江満雄『癩者の憲章』」『火山地帯』第72号、1987年10月
尾崎安、尾崎驍一、杢田瑛二「大江満雄自選詩集『地球民のうた』によせて」『火山地帯』第72号、1987年10月
古林健司「もうひとつの抵抗詩―大江満雄自選詩集『地球民のうた』を読む」『火山地帯』第74号、1988年4月
島比呂志『来者のこえ―続・ハンセン病療養所からのメッセージ』社会評論社、1988年9月
島比呂志『らい予防法の改正を』岩波書店、1991年6月
島比呂志「願望の詩人」『火山地帯』第89号、1992年1月(大江満雄追悼特集)
島比呂志「大江満雄の手紙」『西日本新聞』1992年10月4日
島比呂志「大江満雄展を」『火山地帯』第93号、1993年1月
島比呂志「地球民の詩聖―大江満雄昇天二周年に」(詩)『火山地帯』第100号、1994年10月
島比呂志「社会復帰」『火山地帯』第116号、1998年10月(創刊40周年記念特集)
島比呂志「イレズミ色―『詩学』四十五年ぶりの再会」『火山地帯』第118号、1999年4月
島比呂志詩集『凝視』私家版、2003年7月
「創刊五十周年のあゆみ」『火山地帯』第155号、2008年9月(創刊50周年記念号)
木村哲也「大江満雄と島比呂志―<来者>の声をきく」『火山地帯』第116号、1998年10月(創刊40周年記念特集)
【星塚敬愛園】
〒893-0041 鹿児島県鹿屋市星塚町4204番地
TEL. 0994-49-2500
FAX. 0994-49-2542
http://www.hosp.go.jp/~keiaien/
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大江満雄(おおえ みつお)
1906年高知県生まれ。15歳のとき水害と貧困苦により一家離散し、父とともに親戚を頼り上京。原宿同胞教会にて受洗。石版工として技術を学ぶかたわら、生田春月主宰『詩と人生』準同人となり詩を書き始める。プロレタリア文学運動が盛んになると、その中心で活躍。そのため治安維持法違反で検挙、獄中転向。以後、戦争詩によって詩壇で名をなす。戦後はヒューマニズムを基調とする抒情的思想詩を多数発表した。詩集に『血の花が開くとき』(1928年)、『日本海流』(1943年)、『海峡』(1954年)、『機械の呼吸』(1955年)、『自選詩集 地球民のうた』(1987年)。この他、ハンセン病者の詩のアンソロジー『いのちの芽』編集・解説。多くの評論、児童文学の作品ものこした。1991年心不全により死去。享年85。没後、『大江満雄集―詩と評論』(思想の科学社、1996年)が刊行された。
木村哲也(きむら てつや)
1971年生まれ。中学3年のとき、東京宿毛会(東京近郊在住の高知県宿毛出身者の集まり)席上で大江満雄と出会う。学生時代、『大江満雄集』編集に加わる。以後、全国のハンセン病療養所を訪ね、大江満雄とハンセン病者による詩運動について取材。「紙碑をたてよう―『大江満雄著作集』刊行の夢」(『土佐すくも人』第11号、1994年)、編集・解説『大江満雄集―詩と評論』(思想の科学社、1996年)、「大江満雄とハンセン病者―交流の軌跡」(『歴史民俗資料学研究』第3号、1998年)、「大江満雄と島比呂志―〈来者〉の声をきく」(『火山地帯』第116号、1998年)、「元『不良少年』による交流への希求―書評・国本衛『生きて、ふたたび』」(『ハンセン病・国家賠償請求訴訟を支援する会会報』第9号、2000年)、「大江満雄と光明園の詩人たち」上・中・下(『楓』第476~478号、2000年~2001年)、編集・解説『癩者の憲章―大江満雄ハンセン病論集』(大月書店、2008年)ほか。
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待望の詩―『樹炎』の詩人たち
菊池恵楓園
取材が叶わなかった療養所
大江満雄編集による詩のアンソロジー『いのちの芽』(三一書房、1953年)に作品を寄せた詩人たちをたずねて、全国のハンセン病療養所をめぐる旅をつづけるなか、ほとんどの方たちは、大江満雄の名を出すと、ある人は懐かしそうに、ある人は進んで、ある人は無理にでも時間をつくってお話を聞かせてくださった。
そんななかで、多くの優れた詩人を出しながら、取材が叶わなかった療養所がある。熊本県にある菊池恵楓園が、それだ。
ちなみに、恵楓園から『いのちの芽』に参加した詩人は、以下の5人(掲載順。生年等は『いのちの芽』に記載された内容)。
重村一二(1922年生まれ)、西羽四郎(1921年生まれ)、かしわたる(河岸渉、1929年生まれ)、吉村陽三(生年不明、1949年入園)、山崎玲子(1932年生まれ)。
1998年7月、鹿児島県にある星塚敬愛園の島比呂志さんを訪ねたおり、この5人のうち、重村さん、西羽さん、かしさんの3名は存命であること、特にかしさんは自治会長をされており、面会は可能であろうと教えられていた。取材は容易と思われた。まずは、かしわたるさんにお便りを差し上げた。
ところが、かしさんのお返事によれば、恵楓園で詩謡会の代表をつとめられた吉村さんを初め、山崎さんはすでに亡くなっており、重村さんと西羽さんも高齢になられて外部の人とは絶えて接触されておらず、唯一の頼みのかしさんも、大江と会った記憶がないという。
そして、次のように言うのだ。
「一体に、つきだ・まさし、島比呂志といった文芸活動家の揃っている星塚と違って、菊池は昔から政治活動は盛んでしたが、短歌・俳句の他はこれといった文芸活動家はいませんでしたので、当地には大江先生の足跡はありません。/誠に心苦しい限りですが、右の通りご報告します」(かしわたるさん書簡、1997年2月19日消印)。
一度断られても、時間を置いて熱意を見せれば、会うだけならOK、という場合もある。その例に倣って、やはり恵楓園の詩人の皆さんの作品には引き込まれる魅力があるし、どうしても園を訪ねてみたいのだがと、再度お便りを出してみた。訪問が無理であれば、かしさんの『いのちの芽』参加の経緯、園内に大江の記憶、あるいは大江の足跡を伝える資料が残っていないものか、お便りでお返事願えないものかとも相談してみた。しかし、結果は変わらなかった。
「大江満雄先生の件について調査しましたが、『いのちの芽』―おそらく当時どこの園でも年一回全国文芸特集をしていましたので、そういう形で、全生園か楽泉園かで募集されたのに、当園からも応募者があったのではないでしょうか。/そういうことで一回もお会いしておりません。従ってその後おつき合いもありません。/以上が一週間かけて当自治会の資料を調べた結果の結論です。/ご期待にそえなくてすみませんが、以上ご返事致します」(かしわたるさん書簡、1997年3月7日消印)。
かしさんは、これではあまりにも素っ気ないと思われたのか、園内で大江満雄と会った記憶のある入園者の方で、お便りによるお返事が可能な方を探し出してくださっていた。
青原正さんである。1950年代から、園内誌『檜影』や『菊池野』に、散文を発表された記録が残っている。青原さんの詩作品については管見では知り得ていないが、青原さんからのお便りは次のようなものであった。
「はじめまして。大江先生の著作〔集の編集〕ごくろうさまです。/私は、大江先生との面識は40年前の事ですので、記憶はうすくなりました。/それで、十分にありません。/当時の、詩作上の色々な、御指導をあたえられましたが、今はもう、詩作もやめまして、中風の養生にはいっておりますので、十分なお答えになりませんのでご容赦下さい。/以上、お答えいたします」(青原正さん書簡、1997年3月10日消印)。
外部からの人間と会うことをまったく受け付けないという方が、ハンセン病療養所には少なからず暮らしている事情はわかっているつもりだ。名前や顔を出して外部からの訪問者にお話を聞かせてくださることのほうがありがたいことでもある。だが、恵楓園のかしわたるさんなどは、私が取材を打診した当時は自治会長として活躍され、むしろ進んで外部に向けてハンセン病療養所の現状を話される役を買って出ている方であり、この訪問断りの返事は意外であった。
それだけに、返事に裏があるわけではなく、言葉どおり、すでに詩作からは離れてしまったうえ、大江満雄のことも記憶にないので、わざわざそのためだけに東京から熊本まで来てもらうのはしのびない、という理由がすべてであったと思うことにしている。
一般の園内の見学は許されているわけだし、何かほかの理由をつくって恵楓園を訪問する手立てがないわけではなかったが、二度にわたって断られてしまうと、さすがにそれ以上、無理を言うことが出来なくなり、取材は中断したまま現在まで時間が流れてしまった。
『樹炎』の詩人たち
今回の連載で考えてみたいのは、果たして、かしさんがいうほど、恵楓園での文芸活動は低調であったといえるのか、大江満雄と恵楓園の詩人たちとのつながりが薄いといえるのか、ということである。
確かに、恵楓園では『いのちの芽』参加の療養所のなかでは珍しく、合同詩集も個人詩集も出されなかった。では園内の詩人の作品に見るべきものがないかといえば、とてもそんなことは言えない。
まずは、『いのちの芽』に掲載された、恵楓園の詩人たちの作品を紹介しよう。それらについて、大江がいかに深い思いを寄せているかがわかる言葉も、併せて示したい。思いのほか、大江によって残された恵楓園関連のテキストは多いのだ。
宣告の手記 重村一二
――あなたはレプラです
といわれたその一瞬
硝酸をあびせられたように思った
(略)
ああ いやだ!
私一人がレプラなんて とても耐えられない
みんなレプラになれ、みんな
私はどうすればいいのだ
(略)
「このように『みんなレプラになれ』といい、ある人の作品には『レプラをうつしてやるぞ』という言葉も出ます。レプラ・コンプレックスには、不合理な永い間の恐怖感がつきまとっているのです。だれでもライ病になった場合、一度はみんなレプラになれという気持をもつのだと思っていいのです」(大江「ハンゼン氏病者の詩」『芽』〔第2次『思想の科学』〕1953年5月号)。
別の機会にも大江は、「ぼくはとにかく、みんなをらいにしてやりたいっていう詩ね。これは面白いんです。(略)詩が素朴であっても、訴えて、ハアーッと思う詩ね」と語っている(座談会「歴史のリズム―詩人・大江満雄氏を囲んで」『らい』第23号、1976年3月)。
『いのちの芽』から20年以上経過した座談会での発言である。いかに大江が深く、この詩句にとらわれたかがわかる。
ただし、療養所の詩人たちが、単に憎悪にとらわれることをよしとしていたわけではない。自らのなかにある憎悪を見つめることから、新しい自分を創造してゆきたいという志。そんな主題で、かしさんは次のように書く。
憎悪よ かしわたる
憎悪よ おまえは
私がおまえを愛することが出来ない
とでも思っているのか
(略)
憎悪よ 燃えろ
私のまわりに 私のみうちに
私のまわりから 私のみうちから
無価値なもの すべてを焼き尽くせ
いつか 私は ありったけの力で
おまえにぶっつかって行くだろう
それまで 私は
おまえを愛する
憎悪よ 燃えろ
(略)
『いのちの芽』に掲載された、かしさんの詩はこの1篇のみだが、再生への希求をうたって鮮烈な印象を残す(詳述できないのが残念だが、大江がのちに書いた名作「エゴの木」<1978年>という詩と響き合う主題を持っているとすら思う)。
西羽四郎さんの詩も見たい。『いのちの芽』には、「癩族」という主題の3篇からなるオムニバスを寄せている。冒頭には、「癩は人種にあらず宿命に結ばれし民族である」という挿句があり、この病気を病む人びとを、人種を越えた共同体としてとらえており、大江が掲げた「ライはアジア」の思想と相通じるものがある。大江との共鳴は、このオムニバスの最後に掲げられた次の詩からも見て取れるであろう。
癩憲章 西羽四郎
親愛なる 三百万の同胞よ
癩も亦 民族である
呪われた戦のさなか 銃火をくぐり
廃墟に哭いた 東洋の癩族よ
吾等の輝かしい明日の
平和のために
ペンをふるい 鍬をにぎり
自らの人間であるという事実を
確認しよう
癩は 滅亡の倫理を肯定せよ
それは優生でも 医学でもない
示す 一片の愛情である
ともあれ
この短い 癩族の生涯に
林檎のような収穫を祝福しよう
やがて
癩族は 博物館の片隅で
むらさきの皮膚に 金色の光をそえ
癩憲章を 高らかに叫ぶであろう
大江は、この詩人と作品について、次のように評している。
「西羽四郎は『いのちの芽』(全国ハンゼン氏病療養所から集めた詩集)の中で、もっとも異色ある作品を示した数人の中の一人」(大江「療養所の詩 恵楓園の『樹炎』グループ」『現代詩入門』1956年12月号)。
「西羽の詩は知的で論理的で風刺諧謔性をまじえて鋭く明るいと思います。彼は世界の癩を人種を越えた共同体として考えています。癩はやがてなくなる、という考えが根底にあります」(大江「解説」『いのちの芽』)。
そしてこの詩が、大江がこの頃発表した詩「癩者の憲章」(『新日本文学』1953年2月)を着想するきっかけとなったのではないかと思えるのだ。
大江はたんに彼らに詩の指導をしたわけではなく、大江の側も影響を受け、互いに詩論を深めていったとさえいえよう。
かしさんによれば、1950年代、福岡県久留米の丸山豊(詩人であり医師)の指導を受けながら、恵楓園の「詩謡会」を結成。かしさんもふくめ、吉村陽三、西羽四郎、佐藤忠雄、溝口製次各氏らが参加した。詩謡会、文章会の同人誌『菊池野文学』の発行も盛んであったという(河岸渉「菊池野四百号刊行によせて」『菊池野』1988年2・3月号)。
それらが素地となって、1953年の『いのちの芽』参加へとつながっていったのであろう。
この頃の詩人たちの勢いは盛んで、1956年4月、詩謡会同人による詩誌『樹炎』を創刊。吉村陽三さんが代表、編集をつとめた。合同詩集も、個人詩集も出版されなかった恵楓園にあって、唯一といってよい詩の運動が、この『樹炎』のグループを中心におこなわれたのであった。
ただしキー・パーソンとも言える吉村さんは、私が一連の取材を始めたときにはすでに亡くなっており、お話をうかがえなかったのは残念なことである。
彼らの活動は、1960年代を通してつづけられた模様だ。
あまり知られていないことだと思われるが、丸山豊の紹介で同じ九州の詩人仲間である谷川雁も、恵楓園を訪れるようになっている。最初の訪問がいつのことかは不明だが、丸山による以下のような回想がある。
「事情を話して谷川雁さんに今後の恵楓園ゆきを頼んだ。早速園で文学講演をした雁さんは、かえりしな小宅に立ちよって『いやあ、言語を越えた場所ですね』とおどろきをのべて、二度と腰を上げようとしなかった」(丸山豊「恵楓園印象」『菊池野』1983年9・10月号)。
これが縁となり谷川は、1960年代『菊池野』誌上の文芸特集号で、詩の選者を何年かにわたってつとめ、ユニークな選評で誌上を賑わしていることも、ここに記しておきたい。
藤本事件への支援
先に紹介した、「菊池は昔から政治活動は盛んでしたが、短歌・俳句の他はこれといった文芸活動家はいませんでしたので、当地には大江先生の足跡はありません」という、かしわたるさんの言葉。
大江満雄が、恵楓園の詩人たちと必ずしも無縁に過ごしたわけではないことがわかっていただけたと思う。無縁であったどころか、かなり深いレベルで、共鳴し合っていたのではないかと思われる事実を、別の角度からも示そう。
かしさんの言うとおり、恵楓園においては、文芸活動に打ち込むことを許さないほど、政治的事件に外部から曝されつづけた。
1951年藤本事件、1953年予防法闘争、1954年竜田寮児童通学拒否事件……と、恵楓園周辺では差別的事件がつづき、それに応じて、入園者たちが政治活動に追われたのは確かなことだ(竜田寮事件:恵楓園の入園者を親に持つ非感染児童に対する通学拒否事件。小学校の父母を中心に通学拒否の運動が展開され、草の根に潜む差別意識が露わになった事件でもある。別名黒髪小学校事件。藤本事件、竜田寮事件については、さしあたり、全国ハンセン氏病患者協議会編『全患協運動史―ハンセン氏病患者のたたかいの記録』<一光社、1977年>参照)。
ただし、だからといって、それが理由で、文芸活動が停滞したといえるのか。また、恵楓園に大江満雄の足跡は無いと言えるのか。
結論を言えば、大江満雄による菊池恵楓園への政治活動への支援は、文芸活動と同様、むしろ密なものがあったと言える。
ハンセン病史上、稀に見る差別事件として知られる、藤本事件に関する大江の発言は、けっして少ないとは言えない。
藤本事件とは、ある殺人事件の容疑者として熊本県に住む藤本松夫さんが逮捕され、被告は10年におよぶ裁判の過程で無罪を主張しつづけたが、ハンセン病者であるということへの偏見から十分な審理も尽くされずに死刑となった事件である。
大江は公判から死刑執行後まで、一貫して藤本さん擁護の論陣を張った。
なかでも、人権保障を謳う新憲法下で恵楓園内に医療刑務所が設置され、裁判も経ずに園長の権限で患者の投獄が可能となった不合理に、「新憲法はハンゼン氏病者を守っているだろうか」と抗議の声を上げた(大江「傍聴して思うこと」『多磨』1956年6月号)。
そして、この刑務所建設が始まった1951年に「藤本事件」が起こり、刑務所完成の1953年に死刑判決が下った符合は何を意味するものであろうと注意を促し、これは「見せしめ判決」と断定せざるをえないと論じた(大江「人権の保障の不安―裁判官次第か」『全患協ニュース』第194号、1962年6月15日)。
3回目の再審請求のさなか、1962年9月14日、死刑は突如執行された。
「今後二度とこのようなバカゲた無知なことがないよう努力したい」と、大江にしては珍しく直截的な表現で、その死を悼んだ(大江「殉難者」『全患協ニュース』第201号、1962年10月15日)。
ところで藤本松夫さんは、もともと文盲に近かったが、獄中で読み書きを覚え、やがて詩も書くようになっている。
小さなのぞみ 藤本松夫
押し鮨のように
狭苦しい箱の中に
閉じ込められて
消えかけた命を
今日もまたひきずられてゆく
ああ
わずかな空地でいい
腹の底から
「馬鹿野郎」と
大きな声が出せるところがほしい。
(『楓』1960年10月号)
大江は、「(この詩を)読んだとき彼の『馬鹿野郎』という言葉を援護ホンヤクしたい気持をいだいた。(略)藤本にとって立派な菊池刑務所も心理的には狭苦しい小さな箱にすぎないのだ。/私は十八世紀のイギリスのマンドヴィル(医学者で哲学者)『蜂の寓話』という詩『彼らの法律と着物とは、いづれも変転常なきしろもの、一時いいとされたものでさえ、半年のちには犯罪となる』という詩句を想起する」(前掲、大江「人権の保障の不安―裁判官次第か」)と書いた。
「一時いいとされた」近代的な刑務所施設、律法が、藤本さんの人権を脅かす「犯罪となる」現状を、「援護ホンヤク」=世間に広め訴えることを大江はやめなかった。
藤本さんの詩には、「大江先生の教訓」というサブタイトルがつけられた「インク壺の中に」(『菊池野』1960年8月号)という作品もある。
インク壺の中に 大江先生の教訓 藤本松夫
詩はインク壺の中に
ウジャウジャ詰まっている
と
去る日大江先生は云った
私はインク壺の蓋をゆっくり開けて中をのぞいたが
そこには青黒い液体が
淀んでいるだけだった
私には詩を探し出す能力が
ないのかも知れない
生れ落ちた時に
能力の限界が定められていたらしい
私は死にもの狂いで探し求めたが
詩は何処にも見当たらない
此の浅間しい(ママ)私の姿を
美しい夜空の星々はあざ笑うかのように
キラキラと光っている
あまりにも悲しい詩だが、藤本さんにとって、無念さに心折れそうになったとき、それでも思い出すのは大江の励ましの言葉であったのだ。大江と藤本さんとは、刑務所の壁を越えて心を通わせていたことがうかがえる。
ハンセン病療養所の未来構想―職員との座談での発言
「大江満雄氏を囲んで」(『恵楓』1956年8月号)は、菊池恵楓園の職員4人を交えての座談の記録である(恵楓園では、患者側の園内誌『菊池野』と、職員側の園内誌『恵楓』に分かれている)。
大江は鹿児島の星塚敬愛園を経て、1956年7月24日夜に恵楓園に到着、7月25日は詩を書く入園者と懇談。1泊の予定を2泊に延ばし、7月26日に、この職員との座談会をおこなっている。
大江以外の出席者はA~Dの匿名となっているが、別の大江の文章では、宮崎松記園長、河島実乗庶務主任、患者係の佐藤献、広報係の小牧一二の各氏(順不同)であることが明らかにされている。1956年という早い段階で、職員を前に隔離政策の反対を明確に主張し、改善策への理想を語っている。
大江は、恵楓園の特色を、「市街地に近い」、「近代的な建物」、「広報係を置く」と指摘する。
「電車を降りてすぐのところにありますね。私は療養所を遠いところにおいて隔離するのはいけないと初めから思っているのですが、私が訪ねた療養所では一番便利なところでした。(略)本館が非常に近代的な建物なので安心しました。翌日、広報係の方とお会いして、そういう部門があることにも感心しました」。
広報係を置いていたのは当時恵楓園だけであったといい、閉じられた旧来の療養所から脱して、隔離の内と外を結ぶ役割を大江が期待したことがうかがえる。
市街地に近いということは、熊本大学が近く、医師の欠員を補充しやすい。人里離れた隔離のための療養所と異なり、最先端の医療を受けやすい環境にあることを意味した。
「療養所全体がもっと新しい基準を作って、アジアでの先進国として学問的にも行政的にも新鮮味をもつために、職員方にももっと生き生きと思索もし勉強もし、他園との友好関係を深めたり、研究の発表交換、医学者がそれをやっているようにですね、もう救癩の時代じゃないですから」。
と、職員への激励の言葉(アジテーション?)も忘れていない。
「地理的便利というのは、隔離政策が私としてはいやだもんですから、いろんな意味で新しい病院として、また或る場合にはアフター・ケアの問題も伴って、新しい管理方法がとられ易いように思うんです。癩の研究所が東京だけではなくて、ここにも置かれるだけの理由が十分にあったんだということがはっきりわかったんです。ですから、地図でみると東京から遠いですけれども、職員の方からは逆に近代的な気分を感じるんですね」。
これは、病気が治癒して社会復帰する入園者が増えることを見越して、隔離政策を終わらせ、療養所を「アフター・ケア」の場にしたらよい、という大江独特の構想が根底にある。それが可能な「近代的な気分」が恵楓園には見られる、というのだ。これも時代を考えれば、斬新な構想であろう。
「個人的には非常にいい役人がおられます。時代の変わり方というものを感じさせられますね。しかし、機構がかわらないと、そういう個人の良さ、エネルギーというものは、発揮されませんね。療養所の場合も同じだろうと思います。で、そういう個人がおかれた場でやっていくにしても限度がありましょうから、他の園の似たような立場の人と手を組むことが必要でしょうね。(略)今の三十前後の職員が、十年、二十年後に療養所を背負って立つわけですが、こういう人たちの情熱をスポイルしては人的資源を失うことになって、惜しいことだと思います」。
大江がハンセン病療養所を論じるとき、入園者のみならず、職員の役割や働きやすさをも併せて考えていたことがこの言葉からもわかる。
大江が職員と語り合った記録は、確認できる範囲ではこれが全国で唯一であり、それが記録されたのが、ここ菊池恵楓園であったことは、特筆されてよいことだ。1950年代という早い段階で、新たなハンセン病療養所像を語る構想力に満ちた発言。こんなところにも、大江の足跡は残されている。
待望の詩
1996年3月のらい予防法廃止以後も、ハンセン療養所の人びとの暮らしは穏やかなものではなかった。
1998年、違憲国賠訴訟が熊本地裁に提訴され、この動きは東日本や瀬戸内の各療養所にも飛び火した。歴史に残るこの裁判は、まさに恵楓園の入園者を中心として進められたのである。原告である入園者の粘り強い運動がみのり、2001年熊本地裁判決、原告全面勝訴。連日、マスコミはこの出来事を報じた。ハンセン病元患者への差別など過去のものだと思われた。が…。
2003年、黒川温泉ホテル宿泊拒否事件が起きる。宿泊を拒否されたのは、恵楓園の入園者たちであった。ホテル側は法務局の再三の指導を無視して、差別的で大時代的な発言を繰り返し、世間を唖然とさせた。やがて業務停止命令を受けて廃業した。
確かに、のんきに詩作などしていられない、と当人たちが考えるほど、恵楓園の人たちをとりまく政治的事件は切れ目なくつづき、そのなかで、正当な訴えを社会に向けて発言し運動してゆくことに、振り回されてきたといえるかもしれない。
ただし、大江満雄とハンセン病療養所の詩人たちの交流の軌跡を見るにつけ、療養所の人たちが、一足飛びに社会的思考や発言を身につけたということは稀で、隔離の壁の中にあって、外部とのつながりを獲得してゆく、秩序立てて言葉にしてゆく、情熱に言葉というかたちを与えてゆくには、若き日、詩を書き、社会に訴えるという経験の積み重ねがあったと見るべきではないだろうか。
『いのちの芽』に寄せられた、恵楓園の重村一二さんによる次のような詩がある。タイトルからもわかるとおり、未来へ向かって放たれた作品だ。
待望の詩 重村一二
何時の間にか僕は
人生の片隅を 愛するようになった
ここには 子供も青年も老人もいる
それぞれの心に
燃えている焔は
どんなに とりどりであることか
戦後デモクラシイという雨がふって
さまざまの芽がもたげているが
まだ年輪の木蔭で眠っているものがある
僕らは乞食根性とあなた任せの依存心をすてよう
新しい芽を伸ばしてゆこう
(略)
僕らは人間性の展望台をつくろう
健康な詩を
悲しい家庭に送らねばならない
(略)
僕たち
片隅の人は片隅の価値しかないという人たちに抵抗しよう
僕らは待望の日のために
片隅を愛し
人間性の香り高い生活を創ってゆこう
「この詩など戦後の患者の生活思想をよく示していると思います。(略)とにかく、患者の方が知的になり意志的になり、生活創造の表現を意欲しているわけですから一般社会人、政府当事者は、それをよく理解して、より高い合理性を共につくる努力をしなくてはならないでしょう」(前掲、大江「ハンゼン氏病者の詩」)。
かしさん自身、園内誌『菊池野』の歴史と役割についてふれた文章の中で、同誌が1950年代の園内文芸サークルの隆盛にあわせて作品の発表の場となり、同じ時期、予防法闘争、竜田寮事件、藤本事件に関連して、「内外から盛んに人権尊重の意見が寄せられ、それらの問題に関心を持つ人、具体的な行動で協力をしてくれた人たちとの、強力な靭帯としての役割も大きかった」と述べているではないか(前掲、河岸「菊池野四百号刊行によせて」)。
療養所の文学活動と政治活動とは、切り離せないかたちで存在しており、ともに療養所の内と外を隔てる垣根を超えることが目指されたのである。
今回紹介した『いのちの芽』に寄せられた恵楓園の詩人たちの社会性を持った個性的な詩を見るにつけ、「菊池は昔から政治活動は盛んでしたが、(略)これといった文芸活動家はいませんでしたので」と卑下する必要はなかったのではないですか、と、訴えたい気分だ。
いまとなっては、ほとんどの方たちが物故され、それが果たせないのはなんとも無念である。ひょっとすると、当人たちにも自覚しえなかった、若き日の詩作品の意味を、せめてここに書き記しておきたいと思う。
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【関連記事】
大江満雄とハンセン病者
【参考文献】
大江満雄「癩者の憲章」(詩)『新日本文学』1953年2月号
大江満雄「ハンゼン氏病者の詩」『芽』(第2次『思想の科学』)1953年5月号
大江満雄「藤本事件によせて」(書簡から)『全患協ニュース』第59号、1956年3月1日
大江満雄「傍聴の感想」『全患協ニュース』第62号、1956年5月1日
大江満雄「傍聴して思うこと」(特集・藤本裁判傍聴記)『多磨』1956年6月号
座談会「大江満雄氏を囲んで」『恵楓』1956年8月号
大江満雄「療養所の詩 恵楓園の『樹炎』グループ」『現代詩入門』1956年12月号
大江満雄「藤本君を法廷にたたしたい」『全患協ニュース』第95号、1957年10月1日
大江満雄「人権の保障の不安―裁判官次第か」『全患協ニュース』第194号、1962年6月15日
大江満雄「殉難者」『全患協ニュース』第201号、1962年10月15日
座談会「歴史のリズム―詩人・大江満雄氏を囲んで」『らい』第23号、1976年3月
大西巨人「藤本松夫公判傍聴記」(特集・藤本公判傍聴記)『多磨』1956年6月号
大重春二「1957年版『九州詩集』二人の詩人の作品について」『菊池野』1957年7月号
藤本松夫「インク壺の中に―大江先生の教訓」(詩)『菊池野』1960年8月号
藤本松夫「小さなのぞみ」(詩)『楓』1960年10月号
佐藤忠雄「詩人・丸山豊」『菊池野』1979年1月号
丸山豊「恵楓園印象」『菊池野』1983年9・10月号
河岸渉「菊池野四百号刊行によせて」『菊池野』1988年2・3月号(詩謡会の歩みに言及)
全国ハンセン氏病患者協議会編『全患協運動史―ハンセン氏病患者のたたかいの記録』(一光社、1977年)
【菊池恵楓園】
〒861-1113 熊本県合志市栄3796
TEL. 096-248-1131(代)
FAX. 096-248-4570
http://www.hosp.go.jp/~keifuen/
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大江満雄(おおえ みつお)
1906年高知県生まれ。15歳のとき水害と貧困苦により一家離散し、父とともに親戚を頼り上京。原宿同胞教会にて受洗。石版工として技術を学ぶかたわら、生田春月主宰『詩と人生』準同人となり詩を書き始める。プロレタリア文学運動が盛んになると、その中心で活躍。そのため治安維持法違反で検挙、獄中転向。以後、戦争詩によって詩壇で名をなす。戦後はヒューマニズムを基調とする抒情的思想詩を多数発表した。詩集に『血の花が開くとき』(1928年)、『日本海流』(1943年)、『海峡』(1954年)、『機械の呼吸』(1955年)、『自選詩集 地球民のうた』(1987年)。この他、ハンセン病者の詩のアンソロジー『いのちの芽』編集・解説。多くの評論、児童文学の作品ものこした。1991年心不全により死去。享年85。没後、『大江満雄集―詩と評論』(思想の科学社、1996年)が刊行された。
木村哲也(きむら てつや)
1971年生まれ。中学3年のとき、東京宿毛会(東京近郊在住の高知県宿毛出身者の集まり)席上で大江満雄と出会う。学生時代、『大江満雄集』編集に加わる。以後、全国のハンセン病療養所を訪ね、大江満雄とハンセン病者による詩運動について取材。「紙碑をたてよう―『大江満雄著作集』刊行の夢」(『土佐すくも人』第11号、1994年)、編集・解説『大江満雄集―詩と評論』(思想の科学社、1996年)、「大江満雄とハンセン病者―交流の軌跡」(『歴史民俗資料学研究』第3号、1998年)、「大江満雄と島比呂志―〈来者〉の声をきく」(『火山地帯』第116号、1998年)、「元『不良少年』による交流への希求―書評・国本衛『生きて、ふたたび』」(『ハンセン病・国家賠償請求訴訟を支援する会会報』第9号、2000年)、「大江満雄と光明園の詩人たち」上・中・下(『楓』第476~478号、2000年~2001年)、編集・解説『癩者の憲章―大江満雄ハンセン病論集』(大月書店、2008年)ほか。
7月16日、聖心女子大学において、シリーズ「高度成長の時代」(全3巻)の合評会がおこなわれました。
参加者は、35人。渡辺治「『高度成長の時代』が描こうとした歴史像とは何か? そこから何を学ぶか?」、倉敷伸子「ジェンダーからみた高度成長――シリーズ『高度成長の時代』の成果から」、戸邉秀明「主体化・構造化の交点へむかって――まだ見ぬ『高度成長の精神史』のために」、という3本の報告をうけ、充実した議論がおこなわれました。
詳しくは、「参加記」をご参照ください。(PDFファイル)
また、以下のページから報告と討論をダウンロードして聴くことができます。
合評会(1)渡辺治氏 http://t.co/dJtuSDe
合評会(2)倉敷伸子氏 http://t.co/XESKte9
合評会(3)戸邊秀明氏 http://t.co/t61R23G
合評会(4)討論会 http://t.co/3dzIuq7
書店様向けに毎月お送りしている新刊案内です。以下からダウンロードしてご利用ください。
大月書店新刊案内2011年8月(PDFファイル)
http://www.otsukishoten.co.jp/files/shinkan/otsuki2011-8.pdf
(2011.7.25)
2011年7月の重版情報を掲載しております。
●『育てにくい子にはわけがある』25刷
●『たべもの教室⑦ 野菜でつくるⅠ』13刷
●『たべもの教室⑨ 魚でつくる』12刷
●『人権の絵本⑥ 学びの手引き』10刷
●『リキッド・モダニティ』8刷
●『こころの救急箱① いじめなんてへっちゃらさ』8刷
●『10代のセルフケア③ 共依存かもしれない』8刷
●『10代のメンタルヘルス② 拒食症』6刷
●『国境なき医師団① 国境なき医師団とは』5刷
●『[増補版]まんが 原発列島』4刷
●『異質の光』4刷
●『藤沢周平 とっておき十話』3刷
●『ゆっくりノートブック② テクテクノロジー革命』3刷
●『ぼくら地球市民③ わたしと地球の約束』3刷
●『難病の子どもを知る本⑧ 難病の子どもを支える人たち』3刷
●『音楽と数学の交差』2刷
●『明日の授業に使える小学校国語 書くこと[5・6年生]』2刷
●『学校のトラブル解決シリーズ別冊 活用のためのガイド』2刷
(2011.7.25)
1992年、ブラジル、リオ・デ・ジャネイロ。世界中の指導者が集まる「環境と開発に関する国連会議」(地球サミット)で、当時12歳の少女が次のように訴えました。
「大人がやっていることのせいで、私たちは泣いています。あなたたちはいつも私たちを愛しているといいます。しかし、いわせてください。もしそのことばがほんとうなら、どうか、ほんとうだということを行動でしめしてください」
いま、放射能汚染が広がる現実を前にして、私たちはこの言葉を、あらためてどのように受けとめるべきでしょうか。少女はこうも言いました。「どうやって直すのかわからないものを、こわしつづけるのはもうやめてください」。
彼女、セヴァン・カリス=スズキは、このスピーチをおこなったときから、未来の子どもたちのために、環境問題に積極的に取り組んできました。
ジャン=ポール・ジョー監督の映画『セヴァンの地球のなおし方』が、現在、東京都写真美術館、渋谷アップリンクほかで公開中です。
彼女の行動とメッセージに、耳を傾けてみませんか。
▼映画『セヴァンの地球のなおし方』公式サイト
http://www.uplink.co.jp/severn/
語られない体験を詩に託して
大島青松園 中石としおさん、塔和子さんに聞く
瀬戸内海に浮かぶ島の療養所
全国に13カ所ある国立ハンセン病療養所のうち、いまもって離島状態で船でしか訪問できない唯一の療養所が、大島青松園である。
四国の香川県、高松港から無料の渡船が出ている。私が訪問した1998年には、高松港との1日2便の往復であった。まったく波のない瀬戸内海を、30分足らずの航行である。
この島には、四国からの患者が多く集められた。島内の雑木林のなかには四国八十八箇所の石仏が並べられており、「島四国」としてミニ遍路の巡礼が出来るようになっている。

この療養所から、大江満雄編集による詩のアンソロジー『いのちの芽』(三一書房、1953年)への参加者は、6人。
恵美かおる(1922~1977年)、上野青翠(1907~1982年)、中石としお(俊夫。本文で紹介)、島内真砂美(1907~1967年)、山澤芳(1924年~)、戸田次郎(1980年、多磨全生園に転園)の各氏である。
他園に比べて参加者は多くはないが、誰もが複数篇の作品が採用されていて、力量を感じさせる。もっとも、私が訪問した時点で、ほとんどの方が亡くなられ、お話をうかがうことができるのは、中石としおさん(1927年生まれ)のみとなっていた。
青松園では中石さんが、詩話会発足より代表をつとめられた。もっともふさわしい方に、お話をうかがうことができたわけである。
中石さんが『いのちの芽』に寄せたのは、このような詩だ。
金魚―島のこどもたちに 中石としお
きっと金魚にも夢があるのだよ
たった二三匹で淋しいのか
あんなによりそい
ひそひそ話し
たわむれている
金魚の故郷はどこだろう
水面に浮き上がってパクパク空気をすいながらどこかを見ている
金魚の先祖はなんだろう
あるいは赤いすいれんの花かもしれない
花びらが水面にこぼれて
金魚になったのかもしれない。
金魚は いじけず
あんなせまいガラスの中でくらしている。
中石さんの詩は、どれもわかりやすい言葉でつづられているが、ご自身の人生を投影した詩句の、意味するところは深い。
「虐げられた心の片隅で/脅えながら/虹をうけ/墓標のような黒い影を/伴って咲いている」(「花」部分)。
「ひきかえすことも出来ず/思いなおしては/歩かねばならぬ/果知れぬトンネル」(「トンネル」部分)。
「暗い/くらい//夜を支えて/一本のローソクの火は燃える//誰も愛せず/誰からも愛されず//瘠身の/白い孤独が嗚咽する」(「炎」部分)。
戦時から戦後への文芸活動
中石さんは、香川県に生まれ、1944年に青松園に入園された。
「戦争が済んで、価値観が変わりました。戦前は戦争讃美の詩。精神浄化につながるというので、文芸や信仰は園によって奨励されていました。坊さんも来たが、説教の内容に距離感を感じました。文芸はかたちにこだわらなくていい。文学する人の資質でしょうなあ。最低な生活しているところに、頼まれもせんのに、自らやろうとするんですから」。
終戦は18歳のとき。
戦後は文芸活動、自治会活動が盛んになる。
1945年9月に患者たちの視察団の一員として高松へ出たことがある。入園してから初めて園の外に出る機会だった。戦時中は、島の外には出してもらえることなどなかったのだから、それがいちばん、中石さんにとって戦後の自由な空気を感じる記憶となった。
青松園には、短歌会、俳句会、川柳会のグループがあって、それぞれ20~30人が参加していた。青松詩人会、文章会もあったが、人数は少ない。
中石さんが入園した1944年当時、詩をやる人は、2~3人しかいなかった。
園内誌の『青松』は、1943年から出ていて、戦争の物資不足のさなかは、1冊を回覧していたのだという。1948年以降、活版になった。
「詩人会が生まれたのは、1948年10月でした」。
まるで自然に生まれたかのように中石さんは言ったが、青松園で詩人会をつくる呼びかけをして、代表として活躍されたのは中石さんその人であった。
中石さんが中心となって出した同人誌は3つある。まずガリ版の『エチュウド』。次にガリ版の『内海詩人』、そして『海図』を出した。これは初めはガリ版だったが、のちに活版にした。全国の療友も募った。
「それが、大江先生に届いた。いきさつはよく憶えていないです。手紙のやりとりは会う前から、昭和22、23年(1947、48年)ごろからしていた記憶があります」。
1953年の予防法闘争は、26歳のとき。
予防法闘争をきっかけに、他の園との交流が活発になる。
多磨全生園で全国の療養所の詩人たちを組織していた国本衛さんとはそのころからのお付き合い。会う以前から文通する仲で、国本さんが主宰していた『灯泥』や『石器』にも呼びかけられて参加している。
そんな活動にとりくむさなかに出版されたのが、大江編集の『いのちの芽』(1953年)であった。
中石さんは26歳までに、先ほどのような詩を書いていたことになる。
大江満雄の青松園訪問
大江の青松園訪問は、1953年5月14日~15日。
『いのちの芽』出版が1953年の4月15日であるから、その1ヵ月後には、青松園を訪れたことになる。これが、最初で最後の訪問となった模様だ。
このときの様子は、山澤芳「詩集『いのちの芽』出版祝賀会―大江満雄先生をお迎えして」(『青松』1953年6月号)で報告されている。
「いとも物静かに、そして十年の知已の如く何んの飾り気も無い、それにしても何か好感を抱かせた」と、その第一印象を記している。
「夜、七時半頃から詩集発行の動機、そして自分のこと、現代詩の有り方、行き方、中央詩の動向等、十一時まで間断なく話し続けた」。
また中石さんも、大江の来園について書き残している。
「五月の特筆すべき出来事は、なんと云っても、詩集『いのちの芽』の編者、大江満雄先生の御来園であった。(略)一度行ってみたいという気持は、誰もが持つだろうが、いざ訪ねるとなると、家族の反対とか、或は病気に対する嫌悪感、恐怖感等によって二の足を踏む人もあるそうであるが(略)」と、ハンセン病をめぐる社会状況もふまえて、詩人の来園を書き起こしている(中石としお「詩謡会便り」『青松』1953年7月号)。
当時、来園者に着用が義務付けられていたという予防着について、中石さんは次のように言う。
「愛生(園)はひどい。甲冑を着たような重装備の予防着。光田(健輔)園長がいたから。青松にも予防着はあったが、それほどではなかった」。
「大江先生は、患者に対してではなく、人間対人間として接してくれました。感じのよい気さくな方。ひざを交えて、飲み食いしたことが、鮮明に残っている。詩の話は記憶になくて、そんなことばかり。晩はみんなで話して、翌朝はこうして2人で差し向かいで」。
「大江先生と言えばね、原稿は楷書書きで、きちんと読めた。手紙となると、達筆すぎて読めなかった(笑)」。
大江の判読困難な「達筆」ぶりについては、気の置けない交流を持った方からは決まって出る話題である。
中石さんは、青松園の詩人グループを支援された近隣の地方在住の詩人たちの役割の重要性についても指摘された。
いちばん古いのが、尾崎徳。香川県庁の医務課に勤めていた方だった。
2番手が、河野進。牧師で詩人。
3番手が、廣瀬志津雄。徳島の詩人。徳島県庁に勤めていた。
大江満雄が4番手。
5番手が、島崎曙海。高知県の詩人。
永瀬清子も岡山から来た。『黄薔薇』を主宰していた詩人。
大勢来ている。それぞれに、青松園との関わりを記した寄稿がある(巻末の参考文献参照)。
このように、青松園は、島の近隣の詩人の支援が手厚かった。
そんなこともあって、大江のように、わざわざ東京から、ということは中石さんの側からも気が引けた。大江自身も、青松園については自分の出る幕ではないと知っていただろうという。同じ瀬戸内海の島の愛生園や、群馬県の高原地帯にある楽泉園など、青松園と同じように交通不便な環境にある園でも熱心に指導していることから、青松園の遠さが問題となったわけではないことがわかる。大江自身の目で見て、重点を置く園を決めた節がある。
大江満雄による詩の評
それでも大江は、詩の選、詩の評で、青松園にも、しっかり足跡を残している。
『青松』1955年3月号は、100号の節目であった。これを記念した文芸特集で、詩の選者として、中石さんは、大江に白羽の矢を立てた。
全国の詩人が応募するなかで、青松園からは、中石さんの「秋風」と、島内真砂美さんの「夕景」が入選している(大江「戦後の感想」『青松』1955年3月号)。
これとほぼ同時期、草津の栗生楽泉園の『高原』誌で文芸募集のさい、大江の選で入選した次の詩が、『いのちの芽』以降の中石さんの作品のなかでは最高傑作といえるのではないだろうか。
石女 中石としお
一輪の朝顔の花が開いたといって
女は
子供のように喜んだ
女の乳房はかたく
花を育てることで
ふくまする子のいないむなしさをまぎらせていたが
時にはげしく
花のような子供が欲しいと思う。
今朝
花粉は
女の指を黄色く染めて
かなわぬ念いを孕ませる
女は
聖母マリヤを思う
女はうっとりと
一輪の花の下で
美しく身籠る
大江は最高の「入選A」にこの詩を選び、次のように評した。
「『石女』(中石としお)が、もっとも優れていると思った。『のように』を用いている文は、がいしてよくないが、この場合は、生きていると思った。こういう作品に新しい神話性がある、といえよう。終聯が、とくによい」(大江「短評」『高原』1955年11月、文芸特集号)。
中石さん独特の隠喩表現が研ぎ澄まされ、忘れがたい印象を残す。
ハンセン病療養所内でおこなわれた強制断種手術について知って読むと、わかるところがある。
中石さんは、メモをとるのを禁じたうえで、この詩のモデルとなった女性について、語って聞かせてくださった。話し終えて、
「これでこの話はおしまい!」と言うと、ポンと話題を変えられた。
ハンセン病と闘ってこられた人は、書かれたことより、書けないことのほうに重要な体験をしていることが多い。この詩には、中石さんが沈黙のうちにしまってあることがらが、行間に隠されている。
中石さんによれば、青松園で文芸活動が盛んだったのは、戦後~昭和30年代(1955~1964年まで)であり、特に、詩話会のメンバー全員が参加してつくりあげた合同詩集『花虎魚(はなおこぜ)』(1956年)出版のときに活動は最高潮に達した。
『いのちの芽』参加の6人に、新たな7人が加わって、13人でつくりあげた詩集である。
タイトルとなった花虎魚は岩礁にすむ魚で、自分たちの容貌をその魚の姿かたちに喩えて名付けた。
『ハンセン病文学全集6 詩一』皓星社、2003年
『花虎魚』を抄録
大江は、「『花虎魚』について」(『青松』1957年1月号)を寄稿し、青松園の詩人たちを激励している。ここではあえて欠点を指摘することも忘れなかった。「勇気」というタイトルで、「歯を喰いしばり敢えて/耐える為の勇気をもとう」と書いた詩人に対して次のように評している。
「詩は、あしき言語習慣と闘うものでありたい。現実は、まだ歯をくいしばり耐えなければならない時があろうが、『勇気』という題でかくときは、歯を喰いしばって耐える自分そのものを勇気をもつ者と観てはいけないと思う。/詩を書くときは歯をくいしばった時を、もう一度冷静に遠隔的に観てほしい。衝動的に書いただけではいけないと思う」。
大江の詩への向き合い方がわかって興味深い。
「もう、救ライ時代の、ライ文学おしうりの時代ではないから、新文学のタイプ創造ということは、たいへんむつかしいことだと思うが、各療養所にそのきざしが見える」とも書いている。
大江が予言したかのように、青松園では、もう一人、異色の女性詩人が頭角を現すのであった。
塔和子さんの登場
塔和子さん(1929年生まれ)は、愛媛県にて生まれる。1943年、青松園に入所。20冊を超える詩集を出している。ドキュメンタリー映画に、『風の舞~ハンセン病の詩人塔和子の世界』(宮崎信恵監督、2003年)がある。
ハンセン病療養所の詩人というとき、こんにちもっとも有名な詩人といってよい。
ただ、『いのちの芽』や『花虎魚』のころには、まだ詩人会に入っていなかったため、作品は収録されていない。
中石さんは、私の訪問時、塔さんの部屋に電話を掛けてくださった。スピーカー設定にして、3人で会話ができた。
塔さんが『海図』のメンバーとなって詩を書きはじめたのは、1959年からだという。『花虎魚』が出た3年後のことであった。
「大江先生には会ったことないのよ。大江先生が来たとき、まだ詩人会に入っていないもの。あとで詩集を出したとき送ったら、感想が届いた。文通は長くしていたよ」。
大江との縁は、それきりだという。
塔さんの言う「感想」とは、大江満雄「『はだか木』について」のことで、『海図』第38号(1962年6月)に掲載された。
「なにより注目すべきことは、『ライ』又は『ハンゼン氏病』という文字が無いということ。生の根元線にふれたところの普遍的な人間像を示しているということです」と大江は驚きをこめて述べている。
未知なる 塔和子
未だ知らないあなたよ
あなたは未だ知らないというだけでも
無限に知ろうとする私への無限の希望だ
未だ知らないあなたよ
あなたは知りたいと願う私の祈りだ
未だ知らないあなたよ
あなたは未だ遠く
うちひらこうとする世界への期待だ
「このような生々しい呼びかけ。交流感」(大江)。
湖 塔和子
出合わなかったいぜん
湖は氷っていました
あなたと視線が合ったとき
あの
熱い羞恥でとけたのです
(略)
あなたの投げかけてくれた言葉が
私の湖の中で
あわい水輪になって
果しなく広がります
「この抒情詩には、ナルシズム(自己愛)の克服過程があり、(略)生々しい夢客性と新しい可能性があると思うのです」(大江)。
大江はこうしてひとつひとつ塔さんの詩をたどりながら、最後にこの詩人について、
「今後、詩作を続けることで、いっそう、人の美、他者の美を発見してゆく詩人になると思います」とエールを送った。
塔さんは、その後、第三詩集『エバの裔』(燎原社、1973年)で第24回H氏賞の次席となる。そして15冊目の詩集、『記憶の川で』(編集工房ノア、1999年)によって1999年第29回高見順賞を受賞。その名は、全国に知れ渡った。
選考委員であった詩人の大岡信は、次のように選評を書いている。
「身のまわりの小さな生活空間以外にはほとんど出たこともないこの詩人の詩が、生きることの貴重さ、よろこび、その一期一会の感動を、より若い詩人たちよりもずっと正確に伝えてくることの『新しさ』」(大岡信「自分の本質から湧く言葉で」―「解説」『ハンセン病文学全集』第7巻 詩2<皓星社、2004年>より孫引き)。
詩歴40年にして与えられた栄誉であったが、ひるがえって、処女詩集『はだか木』の時点で、まったくの無名時代の塔和子の才を見抜いて論じた大江満雄の慧眼にも驚かされるのだ。
『塔和子全詩集1』編集工房ノア、2004年
記録すること―『青松』編集長として
中石さんは『花虎魚』を出したあと、全患協(全国ハンセン氏病患者協議会)の役員を、1969年6月から1971年6月まで2年間つとめ、本部の多磨全生園に勤務。
「政治に関わり、詩がおろそかになった」。
中石さんはそう言うが、私の見立てでは、中石さんの文筆活動は、詩を辞めてからのほうがむしろ闊達自在になってゆく。
おもにはエッセイなのだが、日常的な話題から園内に隠れた重要な問題を提起するのがうまい。
中石さんが『青松』の編集に関わってきたのは20代のころからで、自治会のほうと行ったり来たりした。
編集長となったのは私が取材に訪れた前後数年だが、この時は、聞き書き、というかたちで、中石さんが聞き手となって入園者の自分史を残す取り組みをつづけていた。
園外から取材に来た記録と違い、聞き手が同じ病気をともにしてきた療友、というのが特徴で、外部からの取材の対象となるような有名人ではない、また、自ら進んで自分史を執筆したがるメンタリティの持ち主でもない、園内にひっそりと暮らしている入園者の言葉に、中石さんが耳を傾けた、貴重な記録となっている。
中石さんへの取材を終えてしばらくたってから、どんな媒体であったか忘れてしまったが、中石さんへのインタビュー記事を読む機会があった。ハンセン病国賠訴訟をどう見るか、というテーマの記事で、そのなかで中石さんは、「裁判に加わらない」苦渋の決断とその理由について語っておられた。手元に資料がないので中石さんの言葉を引用できないのだが。
中石さんが『いのちの芽』に寄せたやさしい詩、羞恥心、自己の境涯を冷静に見つめる視点、といったことを、このとき思い出していた。
中石さんは、国賠訴訟の判決が出た半年後の、2001年11月17日、死去。
どんな思いで判決を聞いたか、確かめる機会を失ってしまったことが、心残りである。
(1998年4月9日、大島青松園にて 中石としおさん、塔和子さんより聞き書き)
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【関連記事】
大江満雄とハンセン病者
【参考文献】
大江満雄「選後の感想」『青松』1955年3月号(100号記念特集)
大江満雄「短評」『高原』1955年11月号(文芸特集号)
大江満雄「『花虎魚』について」『青松』1957年1月号
大江満雄「療養所の詩 青松園の『海図』グループ」『現代詩入門』1957年1月号
大江満雄「『はだか木』について」『海図』第38号、1962年6月
廣瀬志津雄「青松詩人への贈りもの」『青松』1951年3月号
廣瀬志津雄「青松詩人達の印象と詩の人間像について」『青松』1952年7月号
山本巌「尾崎徳さんをお迎えして」『青松』1952年10月号
山澤芳「詩会だより」『青松』1952年12月号
中石としお「詩謡会便り」『青松』1953年5月号
廣瀬志津雄「青松詩謡会同人へ贈る書」『青松』1953年5月号
中石としお「詩謡会便り」『青松』1953年6月号(『いのちの芽』『灯泥』に言及)
山澤芳「詩集『いのちの芽』出版祝賀会―大江満雄先生をお迎えして」『青松』1953年6月号
中石としお「詩謡会便り」『青松』1953年7月号(大江満雄来園に言及)
山澤芳「詩謡会だより」『青松』1953年9月(全国療養所ニューエイジ詩人連盟に言及)
山本巌「青松詩人のプロフィール(1)」『青松』1953年9月号(中石としお・恵美かおる・村野四郎)
山本巌「青松詩人のプロフィール(2)」『青松』1953年10月号(山澤芳・上野青翠・島内真砂美)
山本巌「青松詩人のプロフィール(3)」『青松』1953年11月号(戸田次郎・山口忠夫)
山本巌「青松詩人のプロフィール(4)」『青松』1953年12月号(水島秋夫・安岡加雄・そがのかずみ・福家孝)
山澤芳「詩人会だより」『青松』1954年1月号(大江満雄・河野進・永瀬清子・廣瀬志津雄・尾崎徳に言及、山本巌の紹介)
山本巌「詩人会便り 青松詩人を斬る」『青松』1954年2月号
山口忠夫「詩人会便り」『青松』1954年3月号(1954年1月10日第1回研究会。その後、詩謡会の研究会は定例となる。)
島内真砂美「詩と療養について」『青松』1954年4月号
上野青翠「詩人会便り」『青松』1954年5月号(『いのちの芽』に言及)
山口忠夫「内海詩人の反響と詩作態度の反省」『青松』1954年6月号
山本巌「詩論ならぬ私論」『青松』1954年7月号
山澤芳「詩人会便り」『青松』1954年8月号
中石としお「詩壇一九五四年」『青松』1954年12月号
島内真沙砂美「詩人会便り―年頭所感」『青松』1955年1月号
上野青翠「内海詩人便り」『青松』1955年2月号
『青松』1957年1月号(『花虎魚』批評特集。大江満雄、廣瀬志津雄、坂本明子、橋本英三、島崎曙海ら寄稿)
中石としお「新しい出発のために」『青松』1957年1月号(詩人会発足から『花虎魚』刊行までをたどる)
河西新太郎「『花虎魚』の美しさ」『青松』1957年2月号
廣瀬志津雄「青い島のこと」『青松』1959年4月号
中石としお「治療の変遷とその周辺」『青松』1959年10・11月合併号
黒田義雄「永瀬清子さんを迎えて」『青松』1960年9・10月合併号
中石としお「転換期における療養所の実態」『青松』1960年12月号
中石としお「転換期における療養所の実態(2)」『青松』1961年1月号
早瀬正一「生きながら書きながら」『青松』1962年1月号(高知県の詩人島崎曙海の来園に言及)
中石としお「ある日ある時」『青松』1962年7月号(塔和子第一詩集『はだか木』出版に言及)
中石としお「ある日ある時(2)」『青松』1962年8月号
中石としお「ある日ある時(3)」『青松』1962年9月号
中石としお「ある日ある時(4)」『青松』1962年10月号
塔和子「園内文芸のよどみ」『青松』1963年1月号
塔和子「再検討・私たちの詩運動(2)『海図』の昨日・今日」『らい』第4号、1965年7月
廣瀬志津雄「大島三十年の昔は生きている」『青松』1982年10・11月合併号
中石俊夫「天に雪霜の多からんことを」『青松』1984年7・8月合併号(400号記念特集号。『青松』誌の歩みをたどる)
「歴代青松編集者並びに勤務年月」『青松』1984年7・8月合併号(400号記念特集号)
廣瀬志津雄「青松園は私の心の故郷」『青松』1984年7・8月合併号(400号記念特集号)
山本いわお「『青松』と私」『青松』1984年7・8月合併号(400号記念特集号。詩謡会・詩人会の歩みをたどる)
塔和子「詩人貧乏記」『青松』1989年3・4月合併号
塔和子『はだか木』(私家版、1961年)第1詩集
塔和子『エバの裔』(燎原社、1973年)第3詩集、第24回H氏賞次席
塔和子『記憶の川で』(編集工房ノア、1999年)15冊目の詩集、第29回高見順賞受賞
『塔和子全詩集』全3巻(編集工房ノア、2004年、2005年、2006年)
【大島青松園】
〒761-0198 香川県高松市庵治町6034-1
TEL. 087-871-3131
FAX. 087-871-4821
http://www.hosp.go.jp/~osima/
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大江満雄(おおえ みつお)
1906年高知県生まれ。15歳のとき水害と貧困苦により一家離散し、父とともに親戚を頼り上京。原宿同胞教会にて受洗。石版工として技術を学ぶかたわら、生田春月主宰『詩と人生』準同人となり詩を書き始める。プロレタリア文学運動が盛んになると、その中心で活躍。そのため治安維持法違反で検挙、獄中転向。以後、戦争詩によって詩壇で名をなす。戦後はヒューマニズムを基調とする抒情的思想詩を多数発表した。詩集に『血の花が開くとき』(1928年)、『日本海流』(1943年)、『海峡』(1954年)、『機械の呼吸』(1955年)、『自選詩集 地球民のうた』(1987年)。この他、ハンセン病者の詩のアンソロジー『いのちの芽』編集・解説。多くの評論、児童文学の作品ものこした。1991年心不全により死去。享年85。没後、『大江満雄集―詩と評論』(思想の科学社、1996年)が刊行された。
木村哲也(きむら てつや)
1971年生まれ。中学3年のとき、東京宿毛会(東京近郊在住の高知県宿毛出身者の集まり)席上で大江満雄と出会う。学生時代、『大江満雄集』編集に加わる。以後、全国のハンセン病療養所を訪ね、大江満雄とハンセン病者による詩運動について取材。「紙碑をたてよう―『大江満雄著作集』刊行の夢」(『土佐すくも人』第11号、1994年)、編集・解説『大江満雄集―詩と評論』(思想の科学社、1996年)、「大江満雄とハンセン病者―交流の軌跡」(『歴史民俗資料学研究』第3号、1998年)、「大江満雄と島比呂志―〈来者〉の声をきく」(『火山地帯』第116号、1998年)、「元『不良少年』による交流への希求―書評・国本衛『生きて、ふたたび』」(『ハンセン病・国家賠償請求訴訟を支援する会会報』第9号、2000年)、「大江満雄と光明園の詩人たち」上・中・下(『楓』第476~478号、2000年~2001年)、編集・解説『癩者の憲章―大江満雄ハンセン病論集』(大月書店、2008年)ほか。
「オックスフォード科学の肖像」(全21冊)の完結を記念して、書店様でのフェアが始まりました。
下記の書店様へぜひ、お立ち寄りください。
◆東京都中野区 あおい書店中野本店 (開催期間:7月下旬まで)
http://www.aoishoten.co.jp/index.html
◆茨城県水戸市 ブックス川又エクセル店(常設棚にて開催中)
http://kawamatashoten.com/tenpoinfo/index.cgi?ka_mode=3
◆三重県津市 三重大学生協翠陵店 (開催期間:7月末まで)
http://www.mucoop.jp/shop/sale1.html
◆福岡県北九州市 喜久屋書店小倉店(※7月上旬より開催予定)
http://www.blg.co.jp/kikuya/shops/kokura/index.html
◆鹿児島県鹿児島市 旭屋書店イオン鹿児島店 (入口フェア台にて開催。期間:7月中旬まで)
http://www.asahiya.com/shop/westjapan/kagoshima/kagoshima/index.asp
≪フェアの様子≫
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「このシリーズはトップレベ ルの科学者やサイエンスライターによって書かれた、若い読者から 一般向けの科学的な伝記である。その人物の人となりと同時に、発見に導いた思考のプロセス をよく調査・吟味したものとなっている。随所に図版が盛り込まれたこの伝記シリーズには、入門書として最適な専門的知識と、その業績によって私たちの自然 世界への理解を形づくった科学者たちの魅力的で説得力のある人物伝の両方が盛り込まれている」 オーウェン・ギンガリッチ(編集代表)
書店様向けに毎月お送りしている新刊案内です。以下からダウンロードしてご利用ください。
大月書店新刊案内2011年7月(PDFファイル)
http://www.otsukishoten.co.jp/files/shinkan/otsuki2011-7.pdf
(2011.6.21)
2011年6月の重版情報を掲載しております。
●『茶色の朝』19刷
●『おしゃべりなパントマイム』16刷
●『うつ病を体験した精神科医の処方せん』14刷
●『人権の絵本① じぶんを大切に』12刷
●『トレボー・ロメイン② さよなら、ストレスくん』9刷
●『マルクス自身の手による資本論入門』6刷
●『オックスフォード科学の肖像 ダーウィン』3刷
●『考える絵本⑥ 子ども・大人』3刷
●『オックスフォード科学の肖像 アインシュタイン』3刷
●『オックスフォード科学の肖像 フロイト』2刷
●『オックスフォード科学の肖像 コペルニクス』2刷
●『考える絵本③ 人間』2刷
●『考える絵本⑧ ことばメガネ』2刷
(2011.6.21)
2011年5月の新刊情報を掲載しております。
●桜井進/坂口博樹[著]『音楽と数学の交差』1,890円(税込)
●川口由一/辻信一[著]『ゆっくりノートブック8 自然農という生き方』1,260円(税込)
●石井孝子[文]高橋由為子[絵]『かならずわかるさんすうえほん[低学年③] ながさ』1,890円(税込)
●『月刊 クレスコ』(6月号/no.123)500円(税込)
ニッポン放送「藤沢周平傑作選」(毎週日曜、朝6:25~6:55放送)で、小社刊『藤沢周平 とっておき十話』より次の3篇が朗読されます。
6月26日 “父帰る”教え子との再会
7月24日 腹ペコ 青春 文学
7月31日 父が望んだ普通の生活
朗読はニッポン放送アナウンサー、音楽は川井郁子さん(バイオリニスト)と西陽子さん(筝曲家)、ナビゲーターは檀ふみさん(女優・エッセイスト)です。
ぜひお聴きください。
ニッポン放送「藤沢周平傑作選」
http://www.1242.com/fujisawa/
(2011.6.9)
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『いよいよローカルの時代』とあわせてご覧ください!
▼映画『幸せの経済学』Web
http://www.shiawaseno.net/
私を立ち上がらせたもの
邑久光明園 中山秋夫さん、千島染太郎さんに聞く
『いのちの芽』参加の詩人たち、その思い出
2000年7月24日から25日にかけて、初めて邑久光明園を訪ねた。光明園は、前回紹介した長島愛生園と同じ長島にある。もともと大阪にあった外島保養院が、1934年の室戸台風による倒壊によって移転してきた来歴を持つ(1938年開園)。
大江満雄編集によるハンセン病療養所の詩人たちの詩のアンソロジー『いのちの芽』(三一書房、1953年)に、光明園から詩を寄せたのは11人。
取材当時、残念ながら、堂崎しげるさん(1923年生まれ)と中村七鶯さん(1921年生まれ)を除いてみな亡くなられていた。しかも、堂崎さんはご病状が篤く、中村さんも当日ご気分がすぐれず、お話をうかがうことがかなわなかった。
『いのちの芽』には参加されていないが、詩作をとおして、大江とのことを記憶されている中山秋夫さん(1920年生まれ)と千島染太郎さん(1922年生まれ)のお二人に、お話をうかがうことができた。
中山さんが憶えている『いのちの芽』参加者の思い出は以下のとおりである(『いのちの芽』掲載順)。
原よしじ…短歌をつくっていた人で、おとなしい詩を書き、温厚な人だった。
山川きよし…光明園の園内誌である『楓』の編集をしていた人。詩を書いたという印象はない。
大塔寺睦生…記憶にない。
堂崎しげる…詩作会をつくり、光明園で唯一「詩人」といっていい人。
秋田穂月…先日亡くなり、『楓』第471号に追悼特集がある。
橋本正樹…『天狼』という俳句誌の会員であり、詩のほうもこなした、藤本としさん(後述)のご主人。
蜷川ひさ志…不自由な体で努力された。中村七鶯さんと仲がよかった。
上丸武夫…作品に記憶がない。
うちだえすい…俳句をつくっていた人。
中村七鶯…もともと俳句の人。
松本明星…俳句の人。死んだあと中山さんが句集をつくった、友人。
これだけ聞いても、記録しておかねば永久に埋もれてしまうであろう、光明園の詩人たちの多様な個性の一端がうかがえる。
以下、中山さん千島さんお二人のお話を中心に、光明園の詩人たちの活動と、大江が果たした役割に光をあててみたい。
戦時以来の悪弊との闘い
「大江さんとは昭和30年(1955年)前後、2回くらい会うた。なんで出会いとなったのかわからん。緑のベレー帽をかぶって、スタイルはよかったですよ」と、中山さん。
資料にあたってみると、大江の来園の記録は断片的である。1955年4月(『楓』300号記念特集「楓誌の歩み、光明園の歩み、外部のらい事情年表」1965年11月号)と、1956年7月11日(『風と海のなか―邑久光明園入園者80年の歩み』年表、1989年)の2回、別々の資料に記録があらわれる。『いのちの芽』刊行以降の来園であったことがわかる。
「大江さんと話しをした記憶はないんです。長崎の隠れキリシタンの話を聞いたことは憶えています」。
中山さんの記憶の中に、キリシタンについて語る大江の姿が残されている、というのは重要である。
大江は戦前、プロレタリア詩を書き、検挙され転向。戦時中は多くの戦争詩を書いた。戦後はそうした自己の姿を見つめる作品、そして新たな世界の創出への理想をうたった作品を発表した。
その中のユニークな仕事のひとつに、自己の転向を隠れたモチーフとして、キリシタンの転宗を論じたいくつかの史論がある。それらは1960年代に花開いた仕事だが、その話を中山さんは先行して聞いていたことになる。
いっぽう、千島さんは、大江の語る詩論をはっきり記憶されていた。
「光明園には詩の指導者がだれもいなかったんです。他園に比べて詩を書く人も少なかった。中央の詩壇でも有名なある詩人に頼んだりもしたんですが、引き受けてもらえなかった。そのあと大江先生が、向こうからやろうと言ってくださった。文教費をくれなくてもやる、1人でもいいから見てあげるよ、と。邪心がないことは患者にもわかりました。
ハンセン病であることを外に強調するな、人間として純粋なものをうたえ、という言葉が印象に残っています。ハンセン病にこだわってる詩は捨てられました。もう少し人間をふくらませろ。詩をつくれる人間を育てたい。患者に同情しておれない。自分のためにもそうしたくないんだ。自分も小さくなってしまう。もっと広い視野でモノを見よ、と強調された。ハンセン病に関わった人のなかでも、とりわけスケールが大きかった。私の思ってる大江先生は、そういう人です」。
以前この連載でも触れたことだが、ハンセン病者の文学というと、北條民雄や明石海人が真っ先に挙げられるが、ハンセン病が不治の病であったころの時代状況を反映して、旧来の恐怖感や屈辱感を克服しえていない、と指摘。一方で、若い患者の詩作品の中に、社会に目を向け、未来につながる新たな人間関係を模索しようという萌芽が見られる、と高く評価している(「ライ文学の新生面―恐怖・屈辱感からの脱出」『新日本文学』1953年10月号)。
大江はそのことを、千島さんら若い入園者にも、熱っぽく語った様子がうかがえるのである。
「当時私は自治会長をしてまして、じつをいうと詩どころじゃなかったんです。それは大江先生もご存知でした。そんなことやってるから詩も書けないんだ、と言われました」。
ハンセン病であることを強調するな、と語る一方で、大江は予防法闘争へも積極的な理解を示している。
当時の患者の闘いを、「封建的なもの、無知なものへの抗議」とし、「とにかく、患者の方が知的になり意志的になり、生活創造の表現を意欲しているわけですから一般社会人、政府当事者は、それをよく理解して、より高い合理性を共につくる努力をしなくてはならないでしょう」と述べている(「ハンゼン氏病者の詩」『芽』〔第2次『思想の科学』〕1953年5月号)。
ここで言う「封建的なもの、無知なもの」との闘いとは、大江にとってはハンセン病者のみの課題ではなかった。何より自己の転向体験に照らして、自分自身が闘う相手でもあった。
大江がハンセン病者になみなみならない情熱を傾けたのも、戦時以来の悪弊と闘う彼らへの共感が支えとなっていたのではないかと思われる。
中山さんは、面白いエピソードを聞かせてくださった。
「大江さんが初めて光明園に来たとき、記念写真を撮ろうというので、皇太后の歌碑―つれづれの友となりても慰めよ ゆくことかたきわれにかはりて―の前で、ここで撮りましょうか、と言うと、いや、ここはやめよう、と言って、結局海へ出て、松の木のところで撮りました。今はその写真、なくしてしまいましたが。その時、理由を言わなかったんですが、今ならわかる気がします」。
大江は光明園を訪ねた同じ年、岡山で療養中の愛生園園長・光田健輔に面会したおりに感じたことを、次のように述べている。
「ライ園の公会堂に皇太后の大きな肖像画をかかげたり、大きな記念碑を建てたりするところに、皇室の方々がのぞまれないものを感じます。(中略)私は、ライ療養所は、もう救癩時代、隔離政策時代ではないと思っています」(「新しい市民性をもった詩について」『多磨』1955年8月号)。
皇室による「救癩」思想と、大江との距離は、明らかであろう。
詩の選者を、永瀬清子に
大江は人と人とを結びつけることにかけては名人とも言えた。
1956年11月16日には、当時東工大教授であった鶴見俊輔氏も来園している。
鶴見氏も大江によってハンセン病問題に引き込まれた一人である。のち、同志社大学教授時代の1967年、教え子の学生がFIWC関西委員会にいたことがきっかけとなり、「交流の家」建設も実現した(連載第3回参照)。
また、光明園入園者の藤本としさんの文集『地面の底がぬけたんです』(思想の科学社、1974年)も、鶴見氏や交流の家の人脈によって刊行された。これらはすべて、大江の投じた一石が波紋を広げた結果としてある。
そしてもうひとつ、中山さんは語る。
「大江さんは、『楓』の詩の選者に岡山県在住の詩人・永瀬清子さんを紹介してくださいました。『黄薔薇』という詩の同人誌を出していた人で、あとでそこから別れて『裸足』という同人誌を出した坂本明子という人が、永瀬さんのあと、詩の選者を引き継ぎました」。
当時大江は、できるだけ多くの詩人が全国の療養所の入園者の詩に触れるよう、仲間にはたらきかけていたふしがある。永瀬とは旧知の仲であり、『楓』の詩の選者に推薦したとしても不思議はない。
中山さんは、大江が永瀬にふれて、次のように語ったことを憶えている。
「大江さんは、永瀬さんからネクタイをもらったそうなんです。女の人が男にネクタイを贈るというの、どういう意味かわかってるんだろうかって(笑)。喜んでいいものかどうか、困惑して、もてあまし気味に話してました」。
永瀬の来園は大江より早い。1952年1月24日、初めて来園し、同年4月から『楓』の詩の選者をつとめている。中山さんのお話にあるように、1955年4月から坂本明子に交代。
「永瀬さん、当時本気でよう来てくれました。日に焼けたおばさんで、他人行儀なところがなくて。詩の幅が広かった。すべてを大事にしてくれた。小さな字で手紙をくれました。私、今も永瀬さんの遺した『黄薔薇』の同人です」と、中山さん。
「農民詩人として、死ぬまで百姓しながら詩を書いた人。岡山市の市歌の募集があったとき、選者として僕の詩を選んでくれて。でも周囲の反対にあって、結局次席になったんです。永瀬さんは選者を降りられました」と千島さん。
すでに故人となった永瀬に思いを寄せる人が、今も園内に多いことを知ることができる。
永瀬が『楓』の詩の選者をしていたのは、わずか3年にすぎないが、そのころが光明園の詩の活動がいちばん盛り上がったときだったという。
1952年に堂崎しげるさんを中心として詩作会が結成され、1954年に合同詩集『光の杖』が、1955年に合同詩集『こだま』が刊行される。
天使とサタンの詩論―第一合同詩集『光の杖』
光明園における文芸活動を振り返ってみると、俳句、短歌の歴史が古い。
戦前、外島時代の1931年あたりからすでに、俳句に浜中柑児、短歌に亀山美明という外部の指導者を得て活動が行われていた模様だ。
浜中、亀山の指導は光明園に移ってからもつづき、戦後『楓』が復刊すると、俳句、短歌の選者をつとめた。合同俳句集『卯の花』(1952年)、合同歌集『光明苑』(1953年)と、いずれも詩集に先駆けて刊行されている。
一方、詩の活動は、戦前から「詩謡会」が存在し、原よしじさんが中心的存在であったというが、俳句や短歌に比べると指導者もなかった。その原さんにしても、短歌を専門にしていた人物である。
1938年の光明園年報には、「入園患者ニトリテ文芸ハ大イナル慰安ナリ、文芸ノ中ニ安心ヲ求メムトスル境地ニ達スル者スラアリ」とあるという(森幹郎「海について」『楓』1956年8月号より孫引き)。
戦前において文芸活動は当局にとって慰安のため、つまり患者から社会性への目を閉じさせる恰好の道具ですらあった。
戦後になると、原さんのあとを受けて堂崎しげるさんが、1952年『楓』に詩の選者として永瀬清子を迎えたのを機に、「詩作会」を結成する。メンバーは30人くらいであったという(『風と海のなか』267頁)。
この交代にどういう事情があったのかは不明だが、原さん(1909年生まれ)より14歳も年下の堂崎さん(1923年生まれ)への交代は、戦前的な詩サークルから、戦後的なそれへ、新たな世代交代の意味をもっていたであろう。
残念ながら、光明園の訪問で、堂崎しげるさんには面会できなかったのだが、中山秋夫さんの次のような言葉を得ることができた。
「自治会とのかかわりはあったが、人の上に立つ人ではなかった。仲間の作品でも、ここはちょっと、と手を入れるようアドバイスすると、詩がよくなった。光明園にあって、唯一詩人といっていい人物でした。友人の堂崎がやろうというので、私も詩をやりだしたんです」。
千島染太郎さんも、当時のことをよく憶えていた。
「そのころから急速に詩の活動が盛り上がったんです。園内の俳句をやっていたような連中が、こぞって参加しました。ぼくももともと俳人なんです。そのころ、詩に誘われました」。
そうした機運のなかで、詩作会同人による初めての合同詩集『光の杖』が刊行される(1954年12月)。
参加者28人のなかに、『いのちの芽』の11人はすべて含まれている。それとは別に、その時点ですでに故人であった22人の作品が収められているというのも、特色のひとつであろう。
まえがきを園長・神宮良一、序文を詩人・小野十三郎が寄せた。
この詩集を編集した永瀬清子はあとがきのなかで、光明園では俳句、短歌を勉強していた人が多いことが詩にも影響しており、「詩形が短く具象的で言葉を端的に用いる方法を身につけてい」る、と言う。
そして、他園では知性的であったりダイナミックな作風で人の目を驚かすような作品を書く人がしばしば見られるのに対し、光明園の詩人たちは「常に心のあたたまるものを内蔵している」といい、また他園のように、「少数の人がいつもいい詩をかき、あとの人はいつもつまらないと云う固定した状態ではな」く、みながそろって一定のレベルに達しているとも評した。
大江満雄は、「『光の杖』の心的記録性」(『楓』1955年7月号)というユニークな感想を書いている。
「光明園の詩人は全体的に素直です。『光の杖』は肯定的な生の円満さや、善意に満ちています。ここには悪魔の弟子はいない、天使の友がいる、と思わせます」との評は、永瀬の感想とも重なる。
しかし、ユニークなところはその先だ。
「が、よく読むと、必ずしもそうではありません」と、一気に言葉を反転させる。
「元来天使と言うものは悪に弱いもので、今日の社会では生きてゆけないと思いますから、私は天使的なものとサタン的なものとを共有した詩人をよけいに注意いたします」。
そしていくつかの作品を引き、そこからハンセン病者ならではの焦燥や悩み、不安や苦悩を読み取り、「天使的に歌ったり、イメージしていられないと言う事を、幾篇かの詩が語っています」との理解を示した。
今回お話をうかがったお二人はどんな作品を書かれたのであろうか。興味をもってページをめくった。
中山さんは3篇を寄せていた。そのうちのひとつ。
断層 中山秋夫
(略)
理性と感情をどう使い分けるのですか
教えて下さい私に
権力と暴力がどう違うのですか 偉い人
(略)
魚の プランクトンの その不気味な声も
きこえます
灰 灰 死の灰 みんなの声が私にも
きこえています
白い余白の中に訴えの言葉を知らない人達が今います いつも
先頭に立てない私もいます
(*原文には「不気味な音も」とあるが、中山さんによれば「不気味な声も」の誤植とのことなので訂正した)。
全体的におとなしい作品が並ぶ詩集のなかにあって、鋭角的に社会と向き合う姿勢が鮮明な点できわだっている。こうした詩も視野に入れて、大江は先の評を書いたものと思う。
千島さんは7篇を寄せている。「妻の釦」という作品は、『多磨』の文芸特集(1953年11月号)で大江の目にとまり、入選したものである。
妻の釦 千島染太郎
ワンピースの飾り釦
一つ二つ三つ 三つの釦
七つの釦
水色の釦
杓子星よりも
愉しげに
パラソルの影に
日覆の下に
輝く釦
(略)
大江は選評で次のように言う。
「詩的美があると思います。妻の釦というと、いろいろ連想させます。予防法改正運動のことなどを織りこんで書くことができたら一層よいがと思いました」(「表現が外へ向きだしたということにふれて 選後の感想」『多磨』1953年11月号)。
千島さんは大江から、「自治会活動なんてやっているから詩が書けないんだ」と言われた思い出を語ってくださったが、そうしたいきさつを知って読むと、この大江の評はいっそうよくわかる。
自治会運動に明け暮れる千島さんへの理解と、それを家庭で支える夫人への思いにあふれた言葉であろう。
天使性だけの人間はもろい。悪魔性との相克のなかから、人間としての本当の生命感が生まれてくる―。
戦前の療養所の一部の文芸活動が、慰安を目的として当局から推奨すらされ、まさに人間性本来の意味での悪魔性を去勢される場となっていたことを考え合わせると、この大江の評は、詩をとおして真に人間性をとりもどすための激励の言葉だったとも考えられるのである。
個々の顔を社会に向けて―第二合同詩集『こだま』
『光の杖』の一年後、詩作会による第二の合同詩集『こだま』が刊行された(1955年11月)。
作品を寄せたのは11人で、参加者は半減している。このうち、『いのちの芽』に参加していたのは5人。解説は光明園職員の森幹郎氏。
「『光の杖』は園から金が出て、永瀬先生に作品の選をお願いしたんですが、『こだま』のほうは自分たちで金を出し合うて、作品も選びました。そのことに意味があったと思います」と中山さんは回想する。
この詩集を手にとって目を引くのが、書き手一人ひとりの略歴が、かなり細かく自己紹介されていることだ。
じつは『いのちの芽』にも、一人ひとりの略歴が掲載されていた。これは大江が書き手に求めたものであった。このことに、初めは患者の側が躊躇したという。社会からの偏見から家族を守るためにも、多くの者が匿名で療養生活を送っていた当時、彼らが略歴を公表するのには相当な勇気がいったであろう。
しかし、偏見や差別の壁は、彼らの側からも乗り越える必要がある、それが大江の信念であった。略歴をたどると、20代、30代の人が圧倒的な数を占め、みんな若々しい。そして、出身地、学歴、読書歴、病状、宗教など、じつに多様である。
「略歴は悲惨を語りますが、しかし可能性や希望をも語っています」(大江『いのちの芽』解説)。
それから2年。今度は患者自らが略歴を公表するまでになった。この間の意識の変化は目覚ましいと言わねばならない。それは、個々の顔を社会に向けることにほかならなかった。
社会性のある抵抗詩を書きたいという高沢道雄さん。誰からもほめられ尊敬してもらおうとは思わない、ただ自分の信念に向かって努力の限りを尽くしたいという中村七鶯さん。何か詩だけでは本当のことがいえそうな気がするという中山秋夫さん。詩がたとえ家鴨の声のようであっても、自分の生活感情の記録であり、美花であり、屈託のない歌声でありたいという松尾進(畑数馬)さん。……一人ひとりが、詩集の読み手に顔を向けて、自己を語っている。
堂崎しげるさんは、略歴に、「今日迄導き下さった大恩人に『楓』選者永瀬清子先生あり、大江満雄先生あり、全国ハンセン病療養所の詩友がある」と書いた。
編集後記には、「『こだま』の指す如く、どれほどの谺があるか、我々は『光の杖』につづく第二声を、山、空、海の彼方に精一杯放ってみることにしました。果して反響は帰ってくるだろうか、亡び行くに均しい声の行方を見守っています」と痛切な言葉が刻まれている。
彼らの呼びかけに対して、目立った反響の形跡は残念ながら見られない。以下に見るように、大江だけが、唯一その声に応えているのみである。
大江はそのころ、雑誌『現代詩入門』に「療養所の詩」を連載し(1955年12月~1957年7月)、全国のハンセン病療養所や結核療養所の患者たちによる詩のサークルや詩集を紹介、評論している。
園内誌以外の一般向けの雑誌に、大江が療養所の患者たちの詩を論じたものとしては最も網羅的な内容を持つ。
その連載第1回では、光明園の藤本としさんの詩を紹介している(1955年12月)。まだ藤本さんが全国的にはまったく無名の時期であり、彼女の才を見抜いた大江の慧眼が光る。
その後、数回の連載をへて、『こだま』が紹介された(1956年3月号)。
大江はそこで、「橋本正樹の『朝顔の種子』、堂崎しげるの『新しい息吹き』、鹿島太郎の『雲は流れる』、中村七鶯の『点字』、松尾進の『蜂と牡丹』、中山秋夫の『無題』、山川きよしの『熱高き夜』などがめだつ」と書き、「『いのちの芽』以後、全体的に社会的向性がめだつ」と論じた。
『いのちの芽』以後、各園の詩人たちが自発的に詩集を編むという動きを見せ、作品のなかにはっきりと意識の変化を示した。そのことを、大江は見逃していない。
また別な回にも光明園詩作会をとりあげ、「ハンゼン氏療養所の詩人たちは詩書や詩の雑誌の寄贈を希っている。私はこういうことよりも、むしろハンゼン氏療養所の雑誌を求め、そして批評文を送ってほしい」と結んでいる(1956年9月号)。
詩集が園内だけで鑑賞されておわるのではなく、園外の読者を得て交流が深まることに、期待をかけていた。
『こだま』編集後記は、次の詩集刊行の意欲を示して結ばれているが、光明園詩作会で出された詩集はこれが最後となった。
約半世紀後の現在の私たちは、これらの詩集を、すでに貴重な記録として受け取る時代に生きている。当時、肉体的苦痛や生活環境の制限のなかで書かれ、残された2冊の詩集の呼びかけに応えるのは、今からでもおそくはないであろう。
この小文が、新たな読み手をつくるきっかけになればと願っている。
『ハンセン病文学全集6 詩一』皓星社、2003年
『光の杖』『こだま』ともに、本書で読むことができる
時流の中で―堂崎しげるさんの嘆息
光明園詩作会の活動は、2冊の合同詩集を出して以降、急速に停滞していったという。
『楓』のバックナンバーをたどっていくと、いくつかの文章から、会を1人で支えた堂崎しげるさんの悲痛な思いが伝わってくる。
最も早い時期に書かれた「詩作会一年の歩みを省みて」(『楓』1954年11月号)は、第一詩集を出した直後のもので、次々と新入会員を迎え、全国の文芸募集で入選を果たす同人も現れ、「当園に詩の基盤が一応確立された」という喜びと期待に満ちている。
ところが、第二詩集を出して2年とたたないころの、「光明園の詩グループ活動に対する反省」(『楓』1957年8月号)では、文章のトーンが明らかに変わる。
「『詩作会』に私はあいそがつきたと云う気持、無活動な状態をどうすることもできない無力な自分自身へのあいそづかし」といった気分があると前置きし、「単調な日常生活がそれによって幾分、気を紛らわすことが出来れば、云うことなし、としているものが大部分と云えそうだ」と同人について指摘。
「最近は詩集を出し得たと云う安心感からか、気分的な緩みが出て来て会全体の雰囲気が、沈滞的な気分に覆われている。(中略)詩作会の唯一の発表の場でもある『楓』誌への投稿さえ全くなくなってしまっている」という現状を嘆き、同人の奮起を促している。
もっとも、ハンセン病療養所の詩の活動について言えば、堂崎さんの嘆く現状は、1960年代以降全国的な傾向といってよく、ひとり光明園の詩作会のみにあてはめるのは酷だという気もする。
このころから、若い入園者の多くは労務外出による現金収入に目覚め、また社会復帰の希望に燃えた。詩どころではない風潮が支配する。
たとえば、ハンセン病の歴史にひとつのエポックをなした1960年代の「交流の家」建設運動(連載第3回参照)にしても、そうした入園者の思いに、うまく呼応したものであった。
しかし、詩集『光の杖』について、永瀬清子、大江満雄がいみじくも共通して指摘した、光明園の詩人たちの素直さ、おとなしさ。そういった特有の個性も、堂崎さんのいらだちの遠因となっていたのかもしれない、そんな気もするのだ。
堂崎さん最後の文章「時流の中で」(『楓』1971年4月号)は、詩作会が事実上解体した状況を受けて次のように書かれている。
人間生活を豊かにし幸福をもたらすはずの経済成長が、自然を破壊し人間の精神までも蝕み荒廃をもたらした、と堂崎さんは冒頭で言う。
「(かつては)社会性への意識的な目覚めから、療養所の人間形成への役割を担おうとするサークル活動が見られるに至ったのであった。しかし、そうした動きはそう長く続かなかったようだ。文学としての芸術の真髄を極め、そこに療養所文学の位置づけと価値を見出そうとし、療養所の変革と人間造りに大いに力を為しているかに見えた。しかし(略)―」。
園内でも、時流に流されて価値観が多様化し、マイホーム主義に陥り、自己主張はするが他人の声には耳を貸さない者が増えた。堂崎さんの危惧が的中するかのように、この文章の発表直後の1973年6月には光明園自治会は休会(1976年再開)、同年7月には『楓』も休刊してしまう(1999年復刊)。
では、光明園の詩人たちの活動は、本当にここで終わってしまったのであろうか。
「無償の句集」の発掘にとりくむ―千島染太郎さん
千島染太郎さんにお話を聞いた。
1922年大阪に生まれた千島さんは、19歳の暮れ、無癩県運動のさなかに入園。
「大江先生がきたころ、昭和30年(1955年)ころまでは、園内では患者が博打したりモルヒネ打ったり、そんな状況でした」。
1950年頃~61年頃まで、教養部長、文化部長、自治会長などを歴任するなか、患者の教養を高めることに腐心した。職員の木下吉雄氏(1948年1月~1960年4月在職)と、意気投合してのことであった。劇作家の木下順二の従兄弟にあたる人物で、文化的な活動に理解のある職員であったという。
「木下さんも教養でいこう、というので、学歴のない患者のために塾を開いてくれたりしました。ぼくのことを特に目をかけてくれて。赤旗は振らなかったが、書くこととしゃべること、言葉の力で人を動かすことを教えてくれた。私の恩人といっていい人です」。
木下氏の功績としては、『楓』の復刊(1949年1・2月合併号)が特筆される。戦後、園内の文芸活動の隆盛を受け、作品発表の場をつくろうと、復刊第1号を木下氏が編集し、第2号から編集を入園者に手渡した(『風と海のなか』263頁)。
『楓』誌上に、自ら多くの評論も発表している。そのなかには、「千島染太郎論」(『楓』1955年9月号)もある。一職員が一入園者を取り上げて論じるということ、稀なことではないだろうか。2人の親交の深さを物語っている。
「昭和36年(1961年)に体をこわして医者に止められて、自治会活動から手を引く気になりました」。
その後、「無償の句集―H氏療養所関係の忘れられた句集のために」(1963年9月号から1964年3月号まで『楓』に5回連載)の執筆に打ち込んだ。
全国のハンセン病療養所で出された句集の、「読者不在の宿命」に思い至って、その作品群を掘り起こし、埋もれた歴史に光を当てた労作である。
のちに多磨全生園の資料館でこれを偶然目にした私は、目下自分がとりくんでいるのも、「読者不在の宿命」に挑戦し、「無償の詩集」に終わらせまいと奮闘した、大江満雄と光明園の詩人たちの足跡を、歴史のなかにしっかりと刻み込む作業なのだ、と励まされる思いであった。
堂崎さんが詩作会の活動に停滞を感じていた同じころ、同人の1人である千島さんがこのようなとりくみをしていた事実を、ここに示しておきたい。
ちなみに「無償の句集」は、1963年度第6回M氏賞を受賞した。
『楓』に批判精神の乏しいことを嘆いていた職員の森幹郎氏(1953年4月~1959年8月在職)が、転勤を機に創設した賞である(『風と海のなか』264頁)。森氏自身、在職中は詩集『こだま』に特異な解説を書き、『楓』誌上につねに物議をかもす評論を発表しつづけた。
このように、光明園の文芸活動は、大江満雄や永瀬清子といった外部の理解者に恵まれたことだけでなく、一部の優れた職員にも支えられていたことがわかる。光明園の文芸活動を振り返ってみるとき、とりわけ木下・森両氏の果たした役割は大きく、その個性は他園と比べてきわだっている。
「いまだに教養という言葉が好きだ。人間として謙虚になる。知識はいくら積んでも上には上がいる。教養には個性があるから、上や下はない」。
千島さんの含蓄ある言葉を、いま噛みしめている。
裁判に立ちあがる―中山秋夫さん
中山秋夫さんにお話を聞いた。
1920年静岡県に生まれた中山さんは、6歳のとき、父親がハンセン病を発病。父親は群馬県草津湯ノ沢へ1人で姿を消した。
残った者は故郷を離れ、名古屋へ移ったが、そこで一家離散。母、兄たちと一緒に叔父を頼って北海道に移り、そこで兄は叔父と同じ炭坑夫になった。やがて中山さんご自身も発病し、父のいる湯ノ沢で過ごしたこともある。1939年、19歳で入園。
入園するとすぐに現金を取り上げられ、所属宗派は何か、偽名はどうするかと問われた。療養所とは名ばかりで、出口のない収容所であった。
「自治会には関わったことはないが、自治会から下りてきたことを審議する、評議員をずーっとやりました。野党ですわ」。
友人の堂崎さんに誘われて詩を始めたことは、すでに述べた。
しかし1960年にいきなり神経痛で身体がガタガタになり、視力も失う。
そのとき、詩も捨てた。
「すべてが終わった」と感じたという。
堂崎さんは同人の無気力を言うが、こうした病状の悪化までは責められまい。
しかし、中山さんの創作意欲は衰えず、1967年ころから川柳の創作を始め、それから30年間は川柳に没頭した。

句集『父子獨楽』と『一代樹の四季』
「四万十川に大江さんの詩碑が建ったこと、ニュースで知りましたよ」。
1991年4月のことだ。
詩を始めたころ会って以来、関係の途絶えていた詩人を懐かしんだ。
その年の10月に大江は85歳で急死している。
その直後から事態は急速に進み、1996年3月、らい予防法廃止。
1999年、中山さんは厚生省を相手取り、国家賠償と謝罪を求める裁判の原告の1人となり、瀬戸内訴訟原告団の団長もつとめた。
「死者との立会い、何百人ですわ。昭和21~28年(1946~1953年)まで、重病室事務所の主任として患者作業をしてきたんです。専属の医師も看護婦もいなかった。弔い合戦せにゃいかん」。
隔離政策の犠牲になった死者たちへの国の責任は、法の廃止ですべてが終わったと言えるようなものでは決してない、との思いが根底にある。
「おととし(1998年)、詩に帰ったんです」。
1999年、『楓』が復刊。
中山さんをはじめとするかつての詩作会のメンバーに新たな人たちも加わり、発表の場を得て、再び詩を書きはじめた。
全国の療養所の園内誌に目を通して不思議なことは、園内の複雑な事情を反映してか、国家賠償請求裁判についての記事が極端に少ないことである。
そんななかで、中山さんの詩は例外だ。次の詩は、直截的に裁判への思いをうたう。
私を立ち上がらせたもの 中山秋夫
(略)
安堵の死に顔
その死に顔達に見送られながら私が受け止めてきた 死者の魂
永い時の中 死者達の残してくれたもの
私はそれを幾重握りなおし握りなおし
麻痺の手で支えてきたか
(略)
今こそそれを国賠訴訟の席で投げつける
投げつける
石より固くなった死者の思い
大空で砕け飛びちれ
そして私の願い
ようやく私が立ち上がりやり遂げえた事
私の死に土産
鎮魂の花火となって空いっぱいに広がり
あなた達を亡き者にした地上へ 鮮やかに降り注いでくれ
(『楓』2000年1・2月合併号)
その他どの詩をとっても、若いころから鍛え上げた社会への目と、研ぎ澄まされた言葉で、絶対隔離政策によってもたらされた療養所の人生とはなんであったのかを総決算しようとの思いにあふれている。
「生きるとは、歳をとることじゃない。いのちを燃やすことや」。
中山さんは、そう語った。
2001年5月、国賠訴訟は原告側の全面勝訴。
その後、大江満雄と関わりを持った療養所の詩人たちも次々と亡くなった。
中村七鶯さん、2002年3月20日、逝去。
堂崎しげるさん、2002年10月14日、逝去。
千島染太郎さん、2003年6月21日、逝去。
中山秋夫さん、2007年12月4日、逝去。
それでもなお、彼らの残した詩は、いつでも未来の読者に向かってひらかれている。
(2000年7月24日~25日、中山秋夫さん、千島染太郎さんより聞き書き)
詩集『囲みの中の歳月』
★連載第1回はこちら
★連載第2回はこちら
★連載第3回はこちら
★連載第4回はこちら
★連載第6回はこちら
★連載第7回はこちら
★連載第8回はこちら
★連載最終回はこちら
【関連記事】
大江満雄とハンセン病者
【参考文献】
大江満雄「ハンゼン氏病者の詩」『芽』(第2次『思想の科学』)1953年5月号
大江満雄「ライ文学の新生面―恐怖・屈辱感からの脱出」『新日本文学』1953年10月号
大江満雄「表現が外へ向きだしたということにふれて 選後の感想」『多磨』1953年11月(文芸特集)
大江満雄「『光の杖』の心的記録性」『楓』1955年7月号
大江満雄「新しい市民性をもった詩について」『多磨』1955年8月号
大江満雄「療養所の詩 青木繁と藤本としの詩」『現代詩入門』1955年12月号
大江満雄「療養所の詩 詩集『冬の旅』『狂った季節の中で』『巨大なる石』『こだま』にふれて」『現代詩入門』1956年3月号
大江満雄「療養所の詩 光明詩作会」『現代詩入門』1956年9月号
木下吉雄「所謂療養所文芸の在りかたについて」『楓』1949年1・2月合併号
『楓』編集部「永瀬清子先生をお迎えして」『楓』1953年8月号
堂崎しげる「詩作会一年の歩みを省みて」『楓』1954年11月号
永瀬清子「アジアの旅の思い出より」『楓』1955年8月号
木下吉雄「千島染太郎論」『楓』1955年9月号
木下吉雄「療養所文芸の感想」『楓』1955年11月号
森幹郎「海について」『楓』1956年8月号
堂崎しげる「光明園の詩グループ活動に対する反省」『楓』1957年8月号
千島染太郎「無償の句集(一)」『楓』1963年9月号
千島染太郎「無償の句集(二)」『楓』1963年10・11月合併号
千島染太郎「無償の句集(三)」『楓』1963年12月号
千島染太郎「無償の句集(四)」『楓』1964年2月号
千島染太郎「無償の句集(五)」『楓』1964年3月号(完結)
「楓誌の歩み、光明園の歩み、外部のらい事情年表」『楓』1965年11月号(300号記念特集)
堂崎しげる「時流の中で」『楓』1971年4月号
藤本とし『地面の底がぬけたんです』思想の科学社、1974年
邑久光明園入園者自治会『風と海のなか―邑久光明園入園者80年の歩み』1989年
邑久光明園合同詩集『光の杖』1954年12月
邑久光明園合同詩集『こだま』1955年11月
中山秋夫『川柳句集 父子独楽』私家版、1989年
中山秋夫『川柳句集 一代樹の四季』私家版、1998年
中山秋夫『随筆集 鎮魂の花火』私家版、1999年
中山秋夫『詩集 囲みの中の歳月』私家版、2002年
木村哲也「大江満雄と光明園の詩人たち(上)」『楓』2000年11・12月合併号
木村哲也「大江満雄と光明園の詩人たち(中)」『楓』2001年1・2月合併号
木村哲也「大江満雄と光明園の詩人たち(下)」『楓』2001年3・4月合併号
木村哲也「中村七鶯さんの詩から受けとるもの」『楓』2002年5・6月合併号
【邑久光明園】
〒701-4593 岡山県瀬戸内市邑久町虫明6253
TEL. 0869-25-0011(代表)
FAX. 0869-25-1763
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大江満雄(おおえ みつお)
1906年高知県生まれ。15歳のとき水害と貧困苦により一家離散し、父とともに親戚を頼り上京。原宿同胞教会にて受洗。石版工として技術を学ぶかたわら、生田春月主宰『詩と人生』準同人となり詩を書き始める。プロレタリア文学運動が盛んになると、その中心で活躍。そのため治安維持法違反で検挙、獄中転向。以後、戦争詩によって詩壇で名をなす。戦後はヒューマニズムを基調とする抒情的思想詩を多数発表した。詩集に『血の花が開くとき』(1928年)、『日本海流』(1943年)、『海峡』(1954年)、『機械の呼吸』(1955年)、『自選詩集 地球民のうた』(1987年)。この他、ハンセン病者の詩のアンソロジー『いのちの芽』編集・解説。多くの評論、児童文学の作品ものこした。1991年心不全により死去。享年85。没後、『大江満雄集―詩と評論』(思想の科学社、1996年)が刊行された。
木村哲也(きむら てつや)
1971年生まれ。中学3年のとき、東京宿毛会(東京近郊在住の高知県宿毛出身者の集まり)席上で大江満雄と出会う。学生時代、『大江満雄集』編集に加わる。以後、全国のハンセン病療養所を訪ね、大江満雄とハンセン病者による詩運動について取材。「紙碑をたてよう―『大江満雄著作集』刊行の夢」(『土佐すくも人』第11号、1994年)、編集・解説『大江満雄集―詩と評論』(思想の科学社、1996年)、「大江満雄とハンセン病者―交流の軌跡」(『歴史民俗資料学研究』第3号、1998年)、「大江満雄と島比呂志―〈来者〉の声をきく」(『火山地帯』第116号、1998年)、「元『不良少年』による交流への希求―書評・国本衛『生きて、ふたたび』」(『ハンセン病・国家賠償請求訴訟を支援する会会報』第9号、2000年)、「大江満雄と光明園の詩人たち」上・中・下(『楓』第476~478号、2000年~2001年)、編集・解説『癩者の憲章―大江満雄ハンセン病論集』(大月書店、2008年)ほか。
書店様向けに毎月お送りしている新刊案内です。以下からダウンロードしてご利用ください。
大月書店新刊案内2011年6月(PDFファイル)
http://www.otsukishoten.co.jp/files/shinkan/otsuki2011-6.pdf
2011年5月の重版情報を掲載しております。
●『たべもの教室⑥ 牛乳でつくる』21刷
●『ダウン症は病気じゃない』20刷
●『統合失調症とのつきあい方』9刷
●『育つ力と育てる力』7刷
●『10代のフィジカルヘルス⑤ 薬物』4刷
●『[増補版]まんが 原発列島』3刷
●『不登校セラピー』2刷
●『愛することからはじめよう』2刷
●『ゆっくりノートブック⑤ いよいよローカルの時代』2刷
●『藤沢周平 とっておき十話』2刷
2011年4月の新刊情報を掲載しております。
●柴野徹夫[作]安斎育郎[解説]向中野義雄[画]中島篤之助・角田道生[監修]『[増補版]まんが 原発列島』1,260円(税込)
●藤沢周平[著]澤田勝雄[編]『藤沢周平 とっておき十話』1,575円(税込)
●法政大学大原社会問題研究所/五十嵐仁[編]『「戦後革新勢力」の奔流――占領後期政治・社会運動史論1948-1950』5,040円(税込)
●小沢浩[著]『愛することからはじめよう――小林提樹と島田療育園の歩み』1,680円(税込)
●ナオミ・パサコフ[著]近藤隆文[訳]『グラハム・ベル――声をつなぐ世界を結ぶ』2,100円(税込)
●歴史教育者協議会[編]『明日の授業に使える小学校社会科 6年生』2,940円(税込)
●蟻川明男[著]『なるほど日本地名事典[全6巻]』13,860円(税込)
●『月刊 クレスコ』(5月号/no.122)500円(税込)
●『放送レポート』(5月号/no.230)500円(税込)
●『季刊 自治と分権』(2011年春号/no.43)1,050円(税込)
大反響!!「増補版 まんが原発列島」の店頭用POPをご用意しました。
上記リンクからダウンロードの上、A4サイズで印刷してご利用ください。
また、内容のサンプル(PDFファイル)も、店頭での掲示などにご利用いただけます。
他にもサイズや用途等、ご要望に応じて拡材を作成させていただきますので、お気軽に小社営業部(03-3813-4651)までご連絡ください。
今回の大震災と東電原発事故を受けて、辻信一さんほか「ゆっくりノートブック」の著者の皆さんに「3.11以後の世界を創るために」と題したメッセージをお寄せいただきました。
(編集担当より)
私たち1人ひとり、これからどういう社会に暮らしたいのかを考えるために。「ゆっくりノートブック」の著者からのメッセージを届けます。
3.11後の世界を創造するために、「ゆっくりノートブック」シリーズ8巻をぜひ役立ててください。いまこそ「ゆっくりノートブック」の時代です。
特設サイト「ポスト3.11を創る」へ
「社会的痛苦」をテーマに、地域社会の現実に向き合ってきた社会学者の新原道信氏(中央大学教員)より、このたびの震災に関して寄稿していただきました。いま私たちは誰の声を聴き、何を考えるべきなのか。身体の奥底からしぼり出された言葉で綴られています。ぜひお読みください。
新原道信「死者とともにあるということ・肉声を聴くこと― 2011年3月の震災によせて」
http://www.otsukishoten.co.jp/files/memento_mori_20110426.pdf (PDFファイル)
楽団「青い鳥」とともに
長島愛生園 森中正光さん、河田正志さん、近藤宏一さんに聞く
戦後のハンセン病文学における「芽生え」
瀬戸内海に浮かぶ長島愛生園には、現在岡山県側から橋が架けられバスで出入りすることができる。
大江満雄編集による全国のハンセン病療養所の詩人たちの詩のアンソロジー『いのちの芽』(三一書房、1953年)には、愛生園の詩人11人の作品が掲載されている。
これは多磨全生園の24名に次いで多く、これと同数の邑久光明園の11名、栗生楽泉園の10名がつづく。この療養所の詩人の層の厚さがわかる。
ただ残念なことに、中心的なメンバーの多くは他界され、私が初めて愛生園を訪ねた1996年4月の時点では、近藤宏一(小島浩二)さん、森中正光さん、豊田志津雄さん(訪問時お会いできず)の3名が在園されているのみであった。
邑久長島大橋(1988年開通)
「わたしは大江先生には会うとらんのやないかなあ。会うてたら憶えてると思うんや」。
そう話してくださったのは、森中正光さん(1929年生まれ)。
『いのちの芽』には1篇だけ詩を寄せている。このわずか1篇の詩が、たいへん印象深い。
指 森中正光
ぬくい乳房を吸って
やわらかかった指。
萌える土筆のように
青空に向って成育していた指。
それらは現在潮のひいた
干潟のように殺風景です。
(略)
私は、ひもじい人間であるために
この指でかたく愛をにぎりしめたくおもいながら
苦しみの中に生きてきた。
島の人たちは、
何時迄も指を哀しまず
鍬をしばりつけ
全身で土を耕やすわざを
器用に身につけてきた。
きずだらけの指を
土まみれにして
スプンで種を蒔き、
あしたへの芽生えを待ってきた。
ふしくれた指で
四面海で閉された
島里に
今日もこの青空の下で
生活のはげしい火を
たきつづけてきた。
私の
ぬくい乳房を吸って
やわらかかった指よ。
萌える土筆のように
青空に向って成育していた指よ。
ハンセン病は、末端神経を侵されやすく、指先に知覚麻痺という後遺症が残る。そのことを知って読むとわかる詩だ。
大江はこの詩の「芽生え」ということばに注目し、次のように書く。
「このように『芽』という言葉がよく出ます。とくに『芽』という言葉が戦後に、出たわけでないとしても、戦後の芽生えているものに非常にちがうものがあるということは大きな事実です」(大江「ハンゼン氏病者の詩」『芽』〔第2次『思想の科学』〕1953年5月号)。
ハンセン病者の文学というと、戦前活躍した北條民雄や明石海人を想起する人がいまもって多いはずだ。彼らはハンセン病が不治の病だった時代を反映して、自殺を肯定する人物を描き、また呪いや諦めに彩られた独白の詩を書いた。
しかし特効薬プロミンが出現して以降の戦後の若い詩人たちには、外に向かっての熾烈な希求があり、対話性がある、として、大江は、戦後の若い詩人たちに芽生えたこうした新生面を、見逃すことがなかった。
森中さんは、私が訪ねたおり、愛生園の詩友の島田等さん(1926~1995年)の遺稿集『花』(宇佐美治編、手帖社、1996年)を用意してくださっていた。
島田さんは『いのちの芽』には参加されてはいないが、全国の療養所で詩運動が停滞しはじめた1960年代半ば以降、全国のハンセン病療養所の詩人たちを糾合し、「らい詩人集団」を結成した中心人物である。詩誌『らい』は、1964年9月に創刊された。
私が愛生園を訪れたころ、この遺稿集がちょうど出たばかりで、森中さんはこの中に、島田さんが書かれた「大江満雄論」が収録されているからと、プレゼントしてくださったのである。
島田さんらの詩誌『らい』が軌道に乗った1975年6月、大江満雄は22年ぶりに愛生園を訪れる。これは『いのちの芽』出版直後の1953年以来の訪問であった。このとき、愛生園の詩話会のメンバーと懇談し、その座談会の模様が、島田さんの手によってまとめられている。
座談会「歴史のリズム―詩人・大江満雄氏を囲んで」(『らい』第23号、1976年3月)と、座談会「らいの詩との三十年―大江満雄先生を囲んで」(『裸形』第51号、1976年3月)がそれで、大江が療養所の詩人たちに何を語ったかを示す貴重な記録となっている。
この愛生園訪問がきっかけとなって、大江は、1976年7月号から1989年3月号まで、園内誌『愛生』誌上で詩の選者をつとめることになった。詩の選評は、大江が亡くなる直前までつづいた。
宇佐美治編『花 島田等遺稿集』
河田正志さん(1926年生まれ)は、『いのちの芽』のために詩を13篇も応募したが、1篇も採用されなかった。
初めて愛生園を訪れた大江に会ったとき、まずそのことを詫びられたことが印象に残っているという。
「当時、ぼくが書いていたのは社会を恨むような抵抗詩ばかりだったんだよ。そういう視野の狭い詩に自足することを、大江先生が好まれなかったってのを、あとになって気づかされたんや」。
その後、詩を書かなくなる友人たちも多くなるなか、河田さんは詩作をつづけ、一時は詩話会の代表もつとめた。
新しい年のなかで思う 河田正志
三田尻港の竜宮岬の灯台の上に
太平山のテレビ塔の上に
桑名山の頂にも
天神山の社道にも
毛利屋敷の庭園にも
新しい年が生まれていた
私は三十年ぶりの元旦の朝
生まれた家で雑煮の中の餅をあじわいながら
生きていた喜びをあじわう
祖父祖母 父母 六人の兄弟が健在であった
昭和六年頃の元旦の追憶の幸福―声
私の耳をかすかにたたく
海鳴りのような
亡きひとたちの喜んでいる
ささやきだろうか
河田さんは、1926年7月、山口県に生まれた。1937年7月7日、愛生園に入所。長らく帰れなかった故郷を26年ぶりに訪ね、家族と再会。このときの様子をくりかえし詩に書いた。
その1篇に目をとめた大江は、河田さんの詩を次のように評している。
「これは『里帰り』(ライ無菌者の帰郷)の詩の一つで、鮮度の高い記録詩です。(略)この詩の作者は、30年ぶりで故郷に帰ることができた喜びを『雑煮』を食べながらあじわっています。(略)『里帰り』の詩には明るいものがあります」(大江「わくら葉」『看護学雑誌』1971年1月号)。
この時、大江との印象的な初対面から、18年が経過していた。
点字を舌で読む
近藤宏一さん(1926年生まれ)は、『いのちの芽』に、小島浩二名義で詩を6篇寄せている。
戦時中は途絶えていた園内誌『愛生』の発行が戦後になって再開され、最初の詩の選者となったのは、岡山在住の詩人・永瀬清子であった。「蝶」という詩が選ばれたのが、近藤さんが詩を書きつづけるきっかけとなった(『愛生』1949年1月号)。
大江と直接会ったのは、1953年、最初の愛生園訪問のときの1回だけだが、それ以来ご自身の生き方を大きく変えられた。
そのとき大江は、草津の栗生楽泉園の目の見えない患者のなかに、指先ではなく舌を使って点字を読んでいる者がいることを教えてくれた。ハンセン病の後遺症である指の知覚麻痺によって指先で点字を読むことができない。そこで、知覚が残る舌先を使って点字を読むというのであった。
「そんなことができるだろうかと、初めは思いました。それでも、私もそのころ、目がだんだん見えなくなって、やがて失明すると医者に言われておりましたから、どうしても読みたい、と、舌で点字を読む練習を始めました」。
そのころ長島盲人会ができ、点字講習会が開かれたとき、みんなは手で、近藤さん1人だけが舌で、点字を覚えたという。
思えば、大江は、ひとことふたこと、会話の中で、そのことに触れただけであった。お前もやれなどと言ったわけではなかった。偶然が、運命を変えた。
やがて、近藤さんは、盲目である自分、舌で点字を読む自分を見つめる、というテーマで多くの詩を書いた。
舌読 小島幸二
木枯が雨戸を叩いている
もう みんな寝てしまった
私は床の上で そっと点字聖書を開く
視力をとられ
指の知覚をおかされ
まるで古びた木像のように固く踞(うずくま)りながら
このひと時
私は ただ一つ残された舌先の あわい感覚にすべてをかける
唇で頁をくると ふっと匂うしみの匂い
舌先にとけこむ ほろにがい味
点 点 点
……………点は文字となり
文字は言葉となって流れる
「先に盲人たりしが
今見ゆることを得たることなり」
いたく切なく
神の言葉に口付けしながら
小さな血体の窓から
私はいつの間にか はてしない大空を天翔けていく
これは、全国の療養所から応募がある草津の栗生楽泉園の機関誌『高原』の文芸特集の詩の分野で、大江の選によって入選した近藤さんの詩である(小島幸二は近藤さんの筆名)。
大江は、この詩を、次のように評した。
「本質的な明るさがある。ライの盲人の解釈苦、表現苦について考えさせられる。詩人というものは盲人になるとき、はっきりすると思います。一流の詩人でも、このような詩人に学ばねばならぬと思います」(大江「選後の感想」『高原』1955年2月号)。
大江が舌で点字を読むことを教え、近藤さんが舌読を身につけ、それを詩に表現し、今度は大江の心を動かす。この相互の響きあいが、無言のうちにおこなわれていたのである。
「そうそう、点字で初めて読んだのが、大江先生の詩集『海峡』でした」。
近藤宏一『闇を光に』
光田健輔の評価をめぐって
戦後まもなくの愛生園の詩話会は、志樹逸馬さん(1917~1959年)が代表をつとめていた。『いのちの芽』に18篇の詩の掲載は、全参加者のなかでは最も多い。ハンセン病療養所を代表する詩人である。
近藤さんは、道ひとつはさんで向かいに住んでいたので、絶えず訪ねていく仲であった。
「お坊ちゃんです。体の大きい、あごの張った方。貴公子然としていましたね。ものを言うと優しいんですよ。気品がある。人柄がそんなですから、人が寄るんです。存在感が大きい方ですから。詩話会を開くのは志樹さんの部屋。いい方でしたよ。クリスチャンで、詩と花づくりが趣味。次から次へと花をつくっては咲かせる。心に花の種がいっぱいあったんでしょうね。人と争うことは絶対にしない。それでいて甘えん坊でした」。
近藤さんの人物評は、どの人への評価も公平で、聞いていて、つねに爽やかであった。
「詩話会の代表といっても、親分肌ということはなかったです。光田健輔を崇拝していましたから、毎回、つるし上げ。光田さえ批判すればすむと思っている人たちも多かった。同じ批判をするにしても本当はもっと根深いものがある。根強く、慈父と思っている人がいますから。お世話になった、恩人と思ってる人もいます」。
光田健輔(1876~1964年)は、全生病院(のちの多磨全生園)で院長をしたのち、長島愛生園で初代園長をつとめた。医官でありながら、ハンセン病の強制隔離政策の推進に多大な影響を及ぼした中心人物である。
大江が光田をどのように見ていたのかを示す興味深い文章がある。岡山の自宅で療養中の光田を訪ねたおり、以下のようなことを考えたというのである(「新しい市民性をもった詩について」『多磨』1955年8月号)。
「どのような進歩的な方、先覚者でも二十年、三十年たつと、それ以上だと一層、封建的になります。少々進歩性をもっていても、うっかりすると人に、そういわれるからご自分でも、それを認めることになり自分の進歩性を見失います」。
「私は、ライ療養所は、もう救癩時代、隔離政策時代ではないと思っています。新しい方法をとるべきと思いおります。かりに複式隔離法と呼びたいのですが、大都市、中都市に分院をつくることが必要ではないでしょうか。今の癩園は後保護政策の場にすればよいと思います」。
光田その人への敬意は持ちつつも、時代遅れとなっていた隔離政策に対しては、はっきりと批判の態度を鮮明にしている。さらに、回復者の社会復帰への段階的な対応として、分院をつくる独自の構想まで示しているのだ。
光田の存命中に面と向かってこのような文章を発表したこと、勇気ある行為であったといってよい(ちなみにこの文章で大江は、皇室を利用した「救ライ政策」への批判も婉曲なかたちでおこなっている)。
先にも述べた島田等さんの思い出も、近藤さんの口にのぼった。
「島田さんは、哲学者ですね。黙々と勉強する。思想がしっかりしていた。人に何を言われても動じないですよ。文章も的確ですしね。『いのちの芽』の頃は肺結核で長い間病棟におられたので、詩作を始めるのが私たちとちょっとズレたんです。いつの時代にも、いい友達に恵まれました。島田等さんもその1人でした」。
島田さんは、光田健輔が亡くなったとき、次のような追悼詩を発表した。
故光田健輔先生に捧ぐ 島田等
光田さん
とじられたあなたの瞼にのこされている光景はなんでしょうか
むすばれたまま もうひらくこともないあなたの唇の中の声はなんでしょうか
あなたの死がくまどる
一つの時代
一つの考え方
一つの政策
それはおそらく終るでしょう
あらためられるでしょう。
(以下略)
(『愛生』1964年8月号-光田健輔追悼号)
島田さんを中心とする「らい詩人集団」の結成と、詩誌『らい』の創刊は、この詩の発表から1ヵ月後のことであった。
もっとも、島田さんが「おそらく終るでしょう」と書いた、ハンセン病者の隔離を定めたらい予防法が廃止されるのは1996年。30年以上を待たねばならなかった。
園内にある光田健輔の銅像
楽団「青い鳥」とともに
近藤宏一さんは、詩人であるとともに、愛生園に誕生した盲人のハーモニカ楽団「青い鳥」のリーダーとして知られている。
「1953年の予防法闘争(連載第1回参照)で、ずいぶん園が混乱しました。愛生がまっぷたつに割れた。光田園長は、らい予防法は守れ、隔離政策に反対するなんてけしからん、という。それに反対する患者とのあいだで、争乱がかなりつづきましたから。そんななかから、盲人楽団の『青い鳥』は生まれました。すさんだ心に幸せを!という意図です」。
楽団「青い鳥」結成の1953年には、戦争は落ち着き、特効薬によって病気も落ち着き、生活も落ち着いてきていた。精神的、肉体的な余裕が、サークル活動につながったと近藤さんは見る。詩話会や楽団に限らず、当時園内には多くのサークルが誕生していた。
「みな若かったから、野球なども盛んでしたよ。職員もいっしょになって、予防着をまくりあげてプレーしました。ええ、そうです。光田園長の意向で、職員は琴を弾くのにも予防着を着ていましたし、歌を歌うにも長靴を履いていました」と、近藤さんは笑う。
「盲人会というのはありましたが、おしゃべりするだけでいいのか、という声が次第に大きくなりまして。音楽をやりたい、という声につながっていったんです」。
その当時、楽譜を読めるのが近藤さんしかいなかった。そんなわけで、盲人会の中から生まれたハーモニカ楽団「青い鳥」の団長に担ぎ出されたのであった。
大江から示唆を受けて始めた舌読が、ここでも大いに役立つことになる。
楽団のメンバーはみな目が見えない。合奏なので、我流で演奏していたのでは駄目。ドレミで覚えないと長続きしない。そこで点字の楽譜を取り寄せ、読む練習から始め、みんなで力を合わせてハーモニカの合奏を成功させた。舌から血が出たが、かつて聞いた大江の言葉が絶えず励ましになった。
こうして楽団「青い鳥」が誕生した。
演目は、「波涛を越えて」「宵待草」「カッコウワルツ」などに加えて、「あおいとり行進曲」のような創作曲も含まれていた。
近藤宏一さん
開園当時からあった礼拝堂では、職員用と、患者用と、舞台が西と東というように正反対に分かれていた。見る者は、くるっと180度向きを変えなければならない構造であったという。この建物は、1973年頃に火事で焼けた。それ以降、いまでも聞かれる「火の用心」の園内放送がはじまった。
1951年頃に建てられた愛生会館という建物では、ステージはひとつになったが、緞帳(どんちょう)の奥が職員、手前が患者で、5寸の段差があり、緞帳が上がっているときにはついたてを立てる。舞台を患者が全部使うことはできない決まりとなっていた。
光田健輔が亡くなったのを境に(このとき、近藤さんは、「1964年5月14日」と、光田の命日をスラスラと暗唱した!)、ステージはひとつになった。
「バス会社に嫌がられながら、大阪、京都、名古屋、東京に出向き、演奏会を開きました。『交流の家』(連載第3回参照)が奈良に完成した時も、完成記念の会で演奏しました。大江先生がパンフレットに書いてくださいました(大江「来者の声を」『「交流の家」開所記念行事・『らい』を聴く夕べ』パンフレット、1968年6月24日)。先生には、いくら感謝しても……。だって、練習でつらいと言いながら、そうやって演奏をつづけられたのは、大江先生ら園外の方たちの理解があったからですものね」。
たった一度会ったきりの近藤さんに、大江がこれほどの影響を与え、近藤さんらがさらに大きな活動の輪を、療養所の内にも外にも広げてゆく。お話をうかがいながら、息をのむ思いであった。
楽団「青い鳥」の活動の記録は、近藤さんによって『ハーモニカの歌―楽団あおいとりと共に』(私家版、1979年)という本にまとめられた。それによると、1953年に結成され、1977年に解散するまで、園内演奏32回、園外演奏13回を行っている。
活動の最後の頃になると、長島にはいよいよ、本州本土からの架橋の計画が進められる。隔離の島の内と外とが、ようやく橋でつながろうという時に、楽団「青い鳥」は活動を終えた。
近藤宏一『ハーモニカの歌』
入園者悲願の邑久長島大橋が開通した1988年、「ハンセン病を正しく理解する式典」(同年6月24日)が開催された。この時、大江は、功労者として詩人の永瀬清子とともに招待され、表彰を受けている。
「大江先生を岡山の駅まで迎えに行ったのはぼくや」と、河田正志さんは、この時の様子を懐かしそうに話した。
「橋が架かったことを、先生は喜ばれて、ハンセン病の問題に長く関わったが、『いのちの芽』以降、こんなにうれしいのは初めてのことだと言ってくれて、こっちも感激したねえ。今でもそのときの先生の顔が浮かぶよ」。
さらに1990年秋、愛生園開園60周年記念式典にも、大江は招かれた。
その翌年、85歳で死去。死の直前まで、大江は愛生園の詩人たちと関わりを持ちつづけたことがわかる。療養所の詩人たちも、大江の出会いによって、さまざまに個性的な人生の軌跡を描いた。
「長い療養所生活の中で、この(大江先生との)思い出はピカッと光っています」。
後日、近藤さんからいただいたお便りの一節である(1998年1月28日消印)。近藤さんが全盲であることを思うと、この「ピカッと光って」の文句が、胸に沁みる。
森中正光さんは1998年逝去、豊田志津雄さんは2002年逝去、近藤宏一さんは2009年逝去され、『いのちの芽』に参加した愛生園の詩人はすべて故人となった。
(1996年4月2日、森中正光さん、河田正志さん、近藤宏一さんより聞き書き)
(1999年3月17日、近藤宏一さんより聞き書き)
★連載第1回はこちら
★連載第2回はこちら
★連載第3回はこちら
★連載第5回はこちら
★連載第6回はこちら
★連載第7回はこちら
★連載第8回はこちら
★連載最終回はこちら
【関連記事】
大江満雄とハンセン病者
【参考文献】
大江満雄「ハンゼン氏病者の詩」『芽』(第2次『思想の科学』)1953年5月号
大江満雄「詩集『いのちの芽』と予防法改正運動」(特集『いのちの芽』)『愛生』1953年10月号
大江満雄「選後の感想」『高原』1955年2月号(文芸特集)
大江満雄「解説」島村静雨第一詩集『冬の旅』橘香社、1955年
大江満雄「新しい市民性をもった詩について」『多磨』1955年8月号
大江満雄「小泉雅二詩集『枯葉の童話』によせて」『愛生』1959年9月号
大江満雄「キリスト教と共産主義にふれて―志樹夫人を通じておくる吉成稔著『見える』の読後感」『愛生』1965年4月号
大江満雄「来者の声を」『「交流の家」開所記念行事・『らい』を聴く夕べ』パンフレット、1968年6月24日
大江満雄「選評」(長島詩話会合同詩集『つくられた断層』発刊記念特別募集作品)『愛生』1969年1月号
大江満雄「わくら葉」『看護学雑誌』1971年1月号
大江満雄「『小泉雅二詩集』に寄せて」『愛生』1972年1月号
大江満雄「感想」『裸形』第46号、1972年9月
大江満雄「『裸形』四六号への感想」『裸形』第47号、1973年2月
大江満雄「庸沢陵の“詩の世界”―詩集『砂漠の星座』の感想」『愛生』1976年1月号
「座談会 歴史のリズム―詩人・大江満雄氏を囲んで」『らい』第23号、1976年3月
「座談会 らいの詩との三十年―大江満雄先生を囲んで」『裸形』第51号、1976年3月
大江満雄「選評」『愛生』1976年7月号
大江満雄「選評」『愛生』1976年8月号
大江満雄「選評」『愛生』1976年9月号
大江満雄「選評」『愛生』1976年10月号
大江満雄「選評」『愛生』1976年11月号
大江満雄「選評」『愛生』1976年12月号
大江満雄「評」『愛生』1977年1月号
大江満雄「選評」『愛生』1977年2月号
大江満雄「選評」『愛生』1977年4月号
大江満雄「選評」『愛生』1977年5・6月合併号
大江満雄「選評」『愛生』1977年8月号
大江満雄「選評」『愛生』1978年4月号
大江満雄「選評」『愛生』1978年5・6月合併号
大江満雄「選評」『愛生』1979年1月号
大江満雄「選評」『愛生』1979年2月号
大江満雄「選評」『愛生』1979年3月号
大江満雄「小村義夫詩集『花を活ける女』に寄せて」『愛生』1979年7月号
大江満雄「評」『愛生』1981年3月号
大江満雄「評」『愛生』1982年3月号
大江満雄「評」『愛生』1982年8月号
大江満雄「評」『愛生』1982年9月号
大江満雄「評」『愛生』1982年10月号
大江満雄「評」『愛生』1984年3月号
大江満雄「評」『愛生』1985年3月号
大江満雄「評」『愛生』1986年3月号
大江満雄「評」『愛生』1987年3月号
大江満雄「評」『愛生』1988年3月号
大江満雄「評」『愛生』1989年3月号
大江満雄「感想」『愛生』1991年3月号
『愛生』1953年10月号(詩集『いのちの芽』特集。大江満雄の他、永瀬清子、原田憲雄、松江薙艸、原一郎、藤原定ら寄稿)
藤本浩一「長島詩話会三十年の歩み」『愛生』1960年11月号
島田等「故光田健輔先生に捧ぐ」『愛生』1964年8月号(光田健輔追悼号)
らい詩人集団「宣言」『らい』創刊号、1964年9月
「座談会 らい療養所の詩と詩運動―現状と問題点」(厚木叡、伊藤秋雄、今西康子、塔和子、佐々木寒月、谺雄二、島田等、水島和也、司会・せいすみお)『らい』第2号、1965年2月
吉成稔「大江先生の読後感を聞いて」『愛生』1965年12月号
「らい詩人集団の歩み」『らい』第8号、1966年11月
しまだ・ひとし「回復過程の文学運動」『愛生』1969年4月号
『愛生』編集部「大江満雄先生の詩碑絶つ」『愛生』1991年10月号
『愛生』編集部「愛生園詩話会選者 大江満雄氏 ご他界」『愛生』1992年1月号
宇佐美治編『花 島田等遺稿集』手帖社、1996年4月(「大江満雄論」収録)
つきだまさし「詩誌『らい』発刊のころ」『ハンセン病文学全集』第7巻月報、2004年2月
近藤宏一『ハーモニカの歌―楽団あおいとりと共に』私家版、1979年
近藤宏一『詩集 あきの蝶』ハンセン病問題を考えるネットワーク泉北、2007年(木村哲也編『癩者の憲章―大江満雄ハンセン病論集』の「解説」(275ページ)に2008年とあるのは誤り)
近藤宏一『闇を光に―ハンセン病を生きて』みすず書房、2010年
【長島愛生園】
〒701-4592 岡山県瀬戸内市邑久町虫明6539番地
TEL. 0869-25-0321(代表)
FAX. 0869-25-1762
http://www.hosp.go.jp/~aiseien/
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大江満雄(おおえ みつお)
1906年高知県生まれ。15歳のとき水害と貧困苦により一家離散し、父とともに親戚を頼り上京。原宿同胞教会にて受洗。石版工として技術を学ぶかたわら、生田春月主宰『詩と人生』準同人となり詩を書き始める。プロレタリア文学運動が盛んになると、その中心で活躍。そのため治安維持法違反で検挙、獄中転向。以後、戦争詩によって詩壇で名をなす。戦後はヒューマニズムを基調とする抒情的思想詩を多数発表した。詩集に『血の花が開くとき』(1928年)、『日本海流』(1943年)、『海峡』(1954年)、『機械の呼吸』(1955年)、『自選詩集 地球民のうた』(1987年)。この他、ハンセン病者の詩のアンソロジー『いのちの芽』編集・解説。多くの評論、児童文学の作品ものこした。1991年心不全により死去。享年85。没後、『大江満雄集―詩と評論』(思想の科学社、1996年)が刊行された。
木村哲也(きむら てつや)
1971年生まれ。中学3年のとき、東京宿毛会(東京近郊在住の高知県宿毛出身者の集まり)席上で大江満雄と出会う。学生時代、『大江満雄集』編集に加わる。以後、全国のハンセン病療養所を訪ね、大江満雄とハンセン病者による詩運動について取材。「紙碑をたてよう―『大江満雄著作集』刊行の夢」(『土佐すくも人』第11号、1994年)、編集・解説『大江満雄集―詩と評論』(思想の科学社、1996年)、「大江満雄とハンセン病者―交流の軌跡」(『歴史民俗資料学研究』第3号、1998年)、「大江満雄と島比呂志―〈来者〉の声をきく」(『火山地帯』第116号、1998年)、「元『不良少年』による交流への希求―書評・国本衛『生きて、ふたたび』」(『ハンセン病・国家賠償請求訴訟を支援する会会報』第9号、2000年)、「大江満雄と光明園の詩人たち」上・中・下(『楓』第476~478号、2000年~2001年)、編集・解説『癩者の憲章―大江満雄ハンセン病論集』(大月書店、2008年)ほか。
研究者として、精神科医として、人間の心の傷、社会の傷、歴史の傷を見つめてきた宮地尚子氏から、このたびの震災に寄せてのメッセージです。
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「逃げる」ことについて
宮地尚子
「東京から逃げるのはずるい」といった発言と、それへの反発があちこちから聞こえてくる。
「逃げる」のは「ずるい」ことなのだろうか。少し、考えてみる。
そうすると、逆に「なぜ逃げなかったの?」という言葉が思い浮かぶ。性暴力やDVの被害者に繰り返し向けられてきた言葉。「ほんとうに嫌なら、なぜ逃げなかったの? 逃げなかったってことは、そんなに嫌じゃなかったってことじゃないの?」という、被害者に責任を負わせる論理だ。
「逃げるのはずるい」というのと、「なぜ逃げなかったの?」というのは、方向としては全く正反対である。でも、私には、この二つの言葉は根っこではつながっているように思える。
その二つの言葉に抜け落ちているのは、他者を他者として尊重するということだと思う。
私たちが今、心に留めておいた方がよいことは、「人によって怖いものは違う」という単純な事実だ。
なるべく正しい客観的な情報をシェアするということがまず大事ではあるけれど、そうした後でさえ、人によって怖いものは違う。
余震が怖い人も入れば、放射線が怖い人もいる。一人でいることが怖い人もいれば、誰かと一緒にいることが怖い人もいる。怒鳴り声が怖い人もいれば、静けさに耐えられない人もいる。あらゆることが不確実であることに恐怖を募らせる人もいれば、情報が多すぎることに圧倒される人もいる。
怖いものは、その人にとっては怖いのだ。そして怖いものからは、離れていいのだ。
同時に、逃げられない理由や、離れたくない理由も、人それぞれに違う。
誰とのつながりが大切か。何に愛着を持ってきたか。何がその人の生を支えているのか。先行きにどのような見通しをもっているか。そういったことでも変わってくるし、単純に、旅慣れているとか、これまでも引っ越しが多かった、といったことにも左右されるだろう。その人のこれまでの人生経験や哲学が、そこには映し出される。
「横並び」の「ぬけがけ禁止」みたいなのは、かなしい。
「逃げるのはずるい」という代わりに、「ほんとは自分だって逃げたいんだよ」と言ってしまってはどうだろうか。
「なぜ逃げないの?」という代わりに、「それくらいあなたのことが大切なんだよ」と言ってみてはどうだろうか。
流れる空気が、柔らかくなっていかないだろうか。
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この文章は、著者の許可を得て、ブログから転載させていただきました。
3月11日以降、著者は活発にブログを更新していますが、その理由をこう記しています。
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今はリアルタイムに、わたしが有用だと思う情報や、考えていること、提案などを伝えていきたいと思っています。
それは、同じ言葉であっても、タイミングによって意味が全く異なってしまう状況に、私たちはあるからです。
昨日と同じように今日が過ぎるかはわからない。今日と同じような明日がやってくるかはわからない。そんな日常ともいえない日常に、私たちはいます。日常というものがどのように支えられてきたのかを、大切なものを喪ったり、不便を強いられることによって、気づき始めています。
また、被災者のニーズも刻々とかわり、支援者や生活者にとっても必要とされる知識は、刻々とかわっています。
その時々に役に立つような情報を提供できたら、私も少しは「無力感」から解放されるかもしれません。
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宮地尚子氏の発言に、ご注目ください。
▼宮地尚子のホームページ
http://naokomiyaji.web.fc2.com/j/Welcome.html
【関連情報】
震災後の心のケアに役立つ本&『世界はどうなっちゃうの?』無料サンプル
緊急出版!『[増補版]まんが 原発列島』
雑誌の定期購読で復興支援
このたびの福島原発事故をうけて、1989年に小社より刊行の『まんが 原発列島』を増補・復刊いたします(4月25日刊行予定)。
原発のメカニズムと開発の歴史、日本への導入の内幕、電力会社の利益優先体質と事故隠し、原発労働者の悲惨な実態、そしてつくられた安全神話…。原発の内部を取材した著者が22年前に描いた予測は、現在の状況に酷似しています。
今回の復刊にあたっては、新たに福島原発事故の背景と問題点を説き明かす解説を収録しました。「3.11」以後の日本の進むべき道を考える手がかりにしていただければと思います。
[増補版]まんが 原発列島
柴野徹夫=作
安斎育郎=解説
向中野義雄=画
中島篤之助、角田道生=監修
◆本体1,200円
◆四六判並製カバー装
◆刊行予定日/4月25日
※本書の売上の一部を東日本大震災の救援資金にします。
現在、予約受付中です。最寄りの書店様にお申し込みください。
この度の震災で被災された皆様に、重ねてお見舞い申し上げます。被災地の復興とともに、大切な人やものを喪った方々の心の傷が、ほんの少しずつでも癒されていくことをお祈りします。
(1)『世界はどうなっちゃうの?』無料サンプル公開
『世界はどうなっちゃうの?~こわいニュースにおびえたとき』(心をケアする絵本5)の全文を、電子データにて無料公開しました。
本書は、9,11後、テレビのニュースを見ておびえる子どもが増えたので、子どもたちの心のケアのために、アメリカ心理学協会がつくった絵本です。現代は、テレビで瞬時に情報が流されるので、それを見た子どもたちは、おそれ、どうしてよいかわからずに、心が不安定になります。
幼い子どもは、恐ろしいことが起こると、その事柄や問題が理解できにくいので、心を閉ざしたり、感情を表現する言葉を見つけられずに黙りこんだり、ショックが大きい場合は一時的に言葉を失ったりします。本書は、そんな子どもの心によりそって、気持ちを受け止め、表現できるように、また安心できるようになっています。周囲の大人の方は、子どもといっしょにこの本を開いて、話しあうきっかけにしてください。巻末に大人向けの解説もついています。
全国各地で震災や原発事故のニュースに不安を感じているお子さんたちの心に、平穏を取りもどす助けになれば幸いです。
『世界はどうなっちゃうの?』電子版無料サンプル(Actibook)
ご利用方法
上記のリンク先のページから「電子ブックを読む」をクリックしてください。Actibookをご覧になるには Flash playerが必要です。
*PDF版の公開は終了しました。ご了承ください。
(2)震災後の心のケアに役立つ本
書店様には、5月の新刊案内でもご案内します。
●心をケアする絵本(幼児~)
『5 世界はどうなっちゃうの?』
●10代のセルフケア(中学生~)
『7 PTSDってなに?~トラウマ体験後のケア』
●10代のメンタルヘルス(中学生~)
『3 うつ病』
『8 ストレスのコントロール』
『9 喪失感』
●トレボー・ロメインこころの救急箱(小学校中学年~)
『4 大切な人が死んじゃった』
●一般(大人)向け
『傷を愛せるか』
『悲しみにおしつぶされないために~対人援助職のグリーフケア入門』
『高齢者がうつ病になるとき~予防とケアのために』
詳細は下記のリンクから書誌情報をご覧ください。
大月書店では、『月刊 クレスコ』『季刊 自治と分権』『放送レポート』の3誌を発行しています。この度、雑誌のオンライン書店 Fujisan.co.jp よりご購入いただくと、売上の一部が復興支援金として寄付されるようになりました(4月28日まで)。よろしければこの機会に定期購読いただければ幸いです。
『月刊 クレスコ』
毎月20日発行/B5判48ページ
定価 500円(税込)/定期購読(年12冊・送料込み)6,912円
編集:クレスコ編集委員会・全日本教職員組合(全教)
バックナンバーと詳細な目次はこちら
『季刊 自治と分権』
1・4・7・10月10日発行/A5判128ページ
定価1,050円(税込)/定期購読(年4冊・送料込み)5,000円
編集:自治労連・地方自治問題研究機構
バックナンバーと詳細な目次はこちら
『放送レポート』(隔月刊)
1・3・5・7・9・11月20日発行/B5判48ページ
定価 500円(税込)/定期購読(年6冊・送料込み)3,500円
編集:メディア総合研究所
バックナンバーと詳細な目次はこちら
【定期購読のお申込み方法】
いずれも、雑誌のオンライン書店 Fujisan.co.jp よりお申込みいただけます。上の雑誌名のリンクをクリックしてください。
2011年4月の重版情報を掲載しております。
『子どもの発達と診断①』37刷
『笑って長生き―笑いと長寿の健康科学』11刷
『これならわかる沖縄の歴史Q&A』10刷
『人形劇をつくる』8刷
『仕事で燃えつきないために―対人援助職のメンタルケア』6刷
『世界経済と企業行動―現代アメリカ経済分析序説』3刷
『これならわかるハワイの歴史Q&A』2刷
書店様向けに毎月お送りしている新刊案内です。以下からダウンロードしてご利用ください。
大月書店新刊案内2011年5月(PDFファイル)
http://www.otsukishoten.co.jp/files/shinkan/otsuki2011-5.pdf
◆『自然農という生き方』のCコードが「C0095」と記されていますが、正しくは「C0336」です。ここに訂正して、お詫び申し上げます。
「交流(むすび)の家」にこめた夢
栗生楽泉園 コンスタンチン・トロチェフさんに聞く
数奇な生い立ち
群馬県草津町のハンセン病療養所・栗生楽泉園に、谺雄二さんを訪ねたおり、谺さんは1人のロシア人入所者を紹介くださっていた。
コンスタンチン・トロチェフさん(1928年生まれ)。
そのときトロチェフさんは体調を崩され、療養所内の病棟に入院されていたが、当時私が、鶴見俊輔氏らの協力を得て、『大江満雄集』(思想の科学社、1996年)の出版準備を進めていると聞くと、
「鶴見さんは私の友だち。あなたは鶴見さんの友だち。だからあなたは私の友だち。会いましょう」。
そういう不思議な言い回しで面会を許してくださり、病室に招き入れて、1時間ほど、お話を聞かせてくださったのである。
その1年後の1997年4月4日~5日、あらためてトロチェフさんを草津に訪ねた。
トロチェフさんは、『いのちの芽』に詩を寄せてはいないが、10代のころから詩を書き、大江満雄と交流を持った。のちに大江の解説による第一詩集『ぼくのロシア』(昭森社、1967年)も上梓している。
また、大江も支援した、ハンセン病回復者の宿泊施設「交流(むすび)の家」建設運動のきっかけをつくった人としても有名である。
今回は、トロチェフさんに、そのあたりのことをお話しいただくのが目的であった。
「大江さん、詩話会とのかかわりで、集まりに出たとき、初めて会いました。この家に2、3回来てますよ」。
トロチェフさんは、他の入園者と異なり、木造平屋建ての独立家屋に、非感染者の祖母とともに住むことを許されていた。そこでの出会いの様子は、大江の「『ぼくのロシア』について」(『ぼくのロシア』解説)や、鶴見俊輔「山荘に生きる帝政ロシア」(『太陽』1963年9月号)などで、つとに紹介されている。
「家は、大江さんや、鶴見さんが来た時と変わっていないですよ。5年くらい前に、少しきれいにした。壁の張り替えをして、天井を50センチくらい低くした」。
この部屋で、トロチェフさんの祖母は大江にウオッカを振る舞い、差し出した酒を嫌がらずに飲んだ大江を見て信頼し、プーシキンの詩などを歌い、両者感激して手を取り、ダンスを踊ったという。
トロチェフさんの記憶では、祖母が歌ったプーシキンの詩は、「エフゲーニ・オネーギン」。チャイコフスキーがメロディーをつけてオペラにしたものだそうだ。
トロチェフさんの父ミハイルは、ロシア革命後投獄されていたが、脱出してシベリアを横断し、ウラジオストクで船に乗り、下関に亡命してきた。
はじめ、長崎のジャズバンドでピアノを弾いていたが、やがてスラヴィーナ劇団に加わり、キティ・スラヴィーナの舞踏の伴奏を弾くようになる。
アンナ・ドルツコーイ=ソコリニツキー公爵家の長女として1881年に生まれた祖母は、旅先の「満州」でロシア革命が起こり、故郷に帰れなくなり、同地に巡業に来ていた奇術師の松旭斎天勝一座に頼み込んで、娘2人とともに日本に来た。
その長女が、女優、キティ・スラヴィーナ(芸名。本名はエカテリーナ)で、やがてミハイルと結婚し、1928年 9月 9日、トロチェフさんは神戸で生まれる。
日本の学校に入りたかったが、校長は、外国人はいじめられますよ。外人はスパイと思われる、と言って止めた。その校長はトロチェフさんの母から日本舞踊を習っていた。
しかし、トロチェフさんは近所の日本人たちと毎日仲良く遊んだ。けんかくらいはあったが、いじめられたことは全然なかった。当時の遊びは、ビー玉、メンコ、チャンバラごっこ。外国人と遊ぶよりは、日本人と遊ぶほうが多かった。
やがて、父は離婚し、「満州」に渡り、数年後に大連で亡くなった。
一家は東京に移り、母が舞台の振り付けなどで生計を立てていた。1936年の大晦日は博多で過ごし、1937年正月、東京に移動したときのことをトロチェフさんはよく覚えている。
当時の正月は、いまと全然違い、お酒を飲んでどんちゃん騒ぎをするということはあまりなかった。羽子板の音が、あちこちの家から聞こえてきたのが印象深い。
いまは子どもの遊びもコンピューターが中心となったとトロチェフさんは言う。それは機械とのつきあいでしかない。人と人とのあいだに機械が立っている。
「人間どうしのつきあいのアートが消えるんじゃないかな」。
その後、母はイギリスの版画家と再婚したが、継父になじまなかったトロチェフさんと祖母は日本にとどまり、母は1940年にアメリカに渡った。
戦後まもなく、軽井沢でトロチェフさんはハンセン病を発症。1946年5月23日に草津の栗生楽泉園に入園。17歳のときであった。このとき、通訳にあたったのが、若き哲学者・鶴見俊輔氏であった。まだ幼く言葉の通じない外国人を1人で収容するのはしのびないと、祖母もいっしょに暮らすことを許された。
トロチェフさんが最初にあてがわれたのは、ボロボロの一軒家だった。
渡米していた母は事情を知り、アメリカから占領軍に手紙を書き、別に新しい家を建てさせたのだという。母は1949年12月に安心して亡くなった。墓はアメリカにある。
祖母は、1966年6月に永眠し、草津温泉町立の墓地に葬られている。85歳であった。
1967年、それまで無国籍だったトロチェフさんは、日本国籍を取得した。
母の妹である叔母は、1980年に亡くなり、トロチェフさんには完全に身寄りが無くなった。
トロチェフさんは、祖母のことを、いまでも尊敬をこめて「おばあさま」と呼ぶ。
「おばあさまは、強くて厳しい。厳しくて優しい。
店に行って砂糖を1キロずつ2キロ買ってこいと言いつけるでしょ。
2キロの1袋買ってきたら怒られました。
店に戻して、やり直させられました。
従う、という教育。
あんたがわからなくても、言ったとおりにしなさい。
ギリシャ正教のクリスチャンでした。
修道院の規則に従うのが、修道者のバックボーンですから」。
トロチェフさんの日本語は、こんなふうにひとつのセンテンスが非常に短い。
まるで歌うような口調で、心地よい会話が繰り広げられた。
トロチェフさんの住む一軒家
第一詩集『ぼくのロシア』刊行
トロチェフさんとの出会いについては、鶴見氏も書いている。
戦後間もなく、軽井沢にいたころ、リトアニア人の医者に呼び出された。
ハンセン病の疑いのある白系ロシア人の少年がいる。自分は英語ができないから通訳してほしいという。県の医務官に、ハンセン病であることを告げると、草津の療養所に移されることが決まった。
トロチェフさんの話と合わせると、1946年5月の出来事だったと思われる。
やがて、鶴見氏は、大江と親交を持ち、ハンセン病の問題に大江によって引き込まれる。大江とともに草津の楽泉園にやってきたとき、ロシア人の少年のことを思い出して園にたずねてみると、その少年は成長して園にいるという返事であった。それがトロチェフさんとの再会であった。
トロチェフさんによれば、鶴見氏との再会は、1960年代初め、大江に伴われて草津に遊びに来たときだという。
「大江先生、お酒好き。
家へきて、ベロベロになった。明るい面白い人」。
トロチェフさんは、大江と会う前から詩は書いていた。
詩を書いていた祖母の影響が大きかった。祖母はロシア語で詩をたくさん書いていた。ロシア人貴族はみんな詩が書ける。トロチェフさんは、ロシア語ではとても無理。日本語でしか詩は書けない。
もっとも、ある日突然書き出したという。
トロチェフさんは早くに右足を切断し、義足で生活しているのだが、その切断をしたとき、日本人の血を入れた。楽泉園の矢嶋良一園長の紹介で、杉並区荻窪にある東京衛生病院で輸血した。このとき、「痛い痛い」と、日本語で泣いたらしい。
足の切断と輸血を機に、不思議と詩が書けるようになった。
「日本人の詩人の血だったんじゃないかな」と、トロチェフさんは笑った。
トロチェフさんは、四か国語を操る。
家では祖母からロシア語とフランス語を習い、修道学校では英語を習った。
日本語は近所の友だちづきあいのなかで覚えた。
生活の中では、ロシア語と英語が同じくらいの比重で成長したという。
祖国は、ソビエト共産党が支配する国家となっていた。
しかしトロチェフさんが思いを寄せる祖国は、それ以前の帝政ロシアなのである。
部屋の隅にはギリシア正教の祭壇が祀られ、ロシア帝国のピョートル大帝の肖像画が飾られていた。
冷戦期、日本のインテリがみなソビエトを持ち上げ、帝政ロシアを悪く言う。トロチェフさんは、そのことにいちばん腹を立てていた。
ギリシア正教の祭壇
ピョートル大帝の肖像画
当時、トロチェフさんの書く詩を受け止められる人は確かに稀であったろう。
ソビエト連邦が崩壊したいま、歴史は動いて、彼の詩を受け止める素地は、いまの日本にも広くあるのではないだろうか。
しかしこの詩は、ロシアの土を一度も踏んだことのない、日本で生まれたロシア人によって書かれた作品なのである。
トロチェフさんの生涯と詩は、この世に住む人びとを単色で眺める、というのとは違ったものの見方を教えてくれる。
僕のロシア ―(十月革命)― C・トロチェフ
ロシアよ ロシアよ
僕の広い 広い国
ぶたれた
いじめられた
殺された
僕のロシア
アカハタのかげに
涙の「ボルガ」
骨の森
血の海
君の涙をふきたい
君の傷を洗いたい
僕の手が
病気の鎖でしめられた
このうたのこだまも聞こえない
僕のロシア
(『ぼくのロシア』昭森社、1967年)
大江はこの詩集の解説を書き、トロチェフさんの詩の特徴を次のように指摘した。
「この詩集にかんじられる自然との親和感。擬人化衝動と抽象化衝動の美的統一性」。
「かれの詩には幼児的根源性をもった無垢な願望がある。天から遠隔視しているかのような超越的な作品にも、それを感じることができる」。
「修道士的なものをかんじる。この殉教的パトス」。
「このような少年的な発想は、幼少時から、おばあさんから聞いた帝政ロシアへの郷愁である。トロチェフは、革命によってロシアは変わったが、“聖なるロシア”は、まだ生きているとおもっているのだ」。
そして、大江は、「彼は、どこへ行くだろう。いつ、山荘から下りるだろう。(かれは全快している。)」と詩集の解説を結んだ。
コンスタンチン・トロチェフ『ぼくのロシア』
「交流の家」にこめた夢
1961年、トロチェフさんは長野原の警察署でバイク免許を取得した。50ccのバイクである。ほんとうは250ccに乗りたかったが、義足なので転んだら危ないからと警察で止められた。トロチェフさんは、バイクにまたがってどこへでも出かけていき、独自につきあいを広げていった。
「東京の大江さんのお宅にも行ったことがあります。炭でこたつを焚いていた。空気が悪くなって、すごかった。外を散歩して頭の痛みをなおしました」。
隔離政策のもとで、バイクの免許を取れるものなのかと意外な気がしたが、トロチェフさんが特例だったわけではなく、当時、みんなバイクの免許を取ったのだという。のち、車の免許を取る人も出た。
町の人は、入園者が町に出てくることを嫌がったが、じっさいはもう全快している人たちばかりなので、草津の観光道路をつくるのに駆り出され、繁忙期には草津の温泉ホテルの皿洗い、布団の片づけの仕事などをした。貯めたお金は自由に使えたそうだ。矢嶋園長の裁量が大きく、それを許す気風がこの療養所にはあったという。
1960年代、トロチェフさんが発端となって建設運動が始まったハンセン氏病回復者の宿泊施設「交流の家」については、関係者の記録として、木村聖哉・鶴見俊輔『「むすびの家」物語―ワークショップに賭けた青春群像』(岩波書店、1997年)がある。
木村聖哉・鶴見俊輔『「むすびの家」物語』
1963年のある日、鶴見氏とトロチェフさんは、東京・神田美土代町のYMCAのロビーで会う約束をしていた。ホテルに到着すると、トロチェフさんはホテルのロビーでかけあっていた。すでに感染させるおそれがなく、園から外泊許可ももらっているにもかかわらず、トロチェフさんは、ホテルで宿泊を拒否された。
同志社大学の教員をしていた鶴見氏が、京都に帰った翌日、ゼミの学生にそのことを話した。話を聞いた学生たちが、それなら自分たちでハンセン病回復者が宿泊できる施設をつくったらいい、といい出した。こうして、「交流の家」建設に向けて動き出した。
大倭教(おおやまときょう)という古神道の流れを汲む宗教施設が奈良市の一角に土地を提供し、FIWC(フレンズ国際ワークキャンプ)というクウェイカーの流れを汲むキリスト教の学生団体のメンバーの粘りづよい活動によって、1968年、「交流の家」建設は実現した。足かけ5年かけての運動であった。
先のトロチェフさんの詩集『ぼくのロシア』は、建設運動のさなかの1967年に上梓されている。
この建設運動に協力した文化人は多い。特に、詩人の大江満雄と谷川雁の協力は、惜しみなかったという。
大江は、建設運動が始まるはるか前、すでに、ハンセン病回復者の社会復帰のプランの一端を公表していた。
「コロニー問題をこう考える」(『全患協ニュース』第91号、1957年8月1日)がそれで、「アフターケアーという通路なしで一足とびに社会復帰のできる人はごく少ないだろう」、「全体的には援護制度がなくてはならないだろう」と述べ、社会復帰を希望するハンセン病回復者たちのための施設建設を提言する内容であった。
「交流の家」の話が持ち上がる以前に、すでに大江のなかでは隔離政策に対抗し、ハンセン病回復者を社会へとうながす構想が醗酵していたことがうかがえる。
「交流」と書いて「むすび」と読ませる施設名の命名者も、大江であった。
一説によれば「交流」というキリスト教由来の言葉と、「むすび」という神道の鍵概念となる言葉とをあわせた大江独自のアイディアであったという。
また、「交流の家」建設にあたっては、単なるハコモノをつくるにとどまらず、インドのタゴールが建設した国際大学のような学際的な市民大学の場としての機能を持たせる夢をもっていた(この構想は、大江の発案により、栗生楽泉園に先行して設置された「教養講座」で一部実現していた。楽泉園での教養講座が、1953~58年までの5年間にわたって開講されたことは、第2回の連載で紹介した)。
「わたしは『交流の家』の人たちに、草津楽泉園で実現できなかったことを実現してほしい気持がつよくはたらきます」(大江「『アジア大学』のゆめ」『大倭』第28号、1967年10・11・12月合併号)。
いよいよ「交流の家」が完成したとき、記念するイベントとして、長島愛生園の盲人の入園者による「青い鳥楽団」のコンサート「らいを聴く夕べ」が開催された。そのパンフレットにも大江は文章を寄せた(「来者の声を」1968年)。
青い鳥楽団を組織した団長として名を知られている近藤宏一さんは、『いのちの芽』に小島浩二の名義で詩を寄せていた詩人でもある。近藤さんの聞き書きは、いずれまたここで紹介したい。
トロチェフさんにお話をうかがう4年前、「交流の家」の集まりで、鶴見俊輔氏とトロチェフさんが招かれた集まりがあったそうだ。施設完成から25年の時間が経過していた。
現在も、「交流の家」は、FIWCの活動の拠点として、毎月活用されているという。
未来へ向かってつきあいを広げる
トロチェフさんの第二詩集『うたのあしあと』(土曜美術社出版販売、1998年)には、その後書きためた詩が並ぶ。
これらの詩は、大江、井手則雄の後を受けて楽泉園機関紙『高原』の詩の選者となった詩人・村松武司の選によるもので、トロチェフさんによると、自身の詩を励ましてくれたのは、村松だったと強調した。
「ぼくの詩をわかってくれた人。いい意味のリベラル。広い心で人を見ていた。左右、上下で見ないで、その人の個性を見ていた」。
そして、村松亡き後、『高原』の詩の選者となった詩人・森田進の努力で、第二詩集は出版された。解説は、鶴見俊輔氏が書いた。
東京、金沢、京都、大阪、奈良など、日本各地の地名を刻んだ詩作品が並び、トロチェフさんが療養所を飛び出して訪ねた足跡をたどることができる。
コンスタンチン・トロチェフ『うたのあしあと』
「いま、ここ5~6年、何も書けなくなっている。
修道者になったらパッと消えてしまった」。
1981年からギリシア正教会の修錬士になった。この病気が治ったことを、神への恩返しにするためだとトロチェフさんは言う。ずっと以前から治っていたが、徐々に、気持ちが傾いた。
「神以外のこと考えられなくなる。すると、詩が書けなくなった」。
ギリシア正教会のおつとめが毎日つづく。
1997年は4月19日が復活祭で、トロチェフさんを訪ねたのはその直前であった。
趣味はバイクのほかに、古い帝政ロシア時代の雑誌を集めることだ。
ヨーロッパの古本屋のカタログを見て注文する。
「電話で気軽に頼んでしまうので、請求が来て金額にいつもびっくりする」。
それと、猫。猫を10匹も飼っている。
「ホームレス(野良猫)も来るね。ニャーニャー話してくれるけど、何を言っているのかわからないね」。
マスコミや大学の関係者で、トロチェフさんに話を聞きにくる人は多い。こんな話を聞かせてくれた。
鎌倉のある家を、トロチェフさんの祖母が借りたことがある。
もと作家の有島武郎が住んでいた家で、ここに毎晩、幽霊が出た。
有島のお手伝いさんが奥さんを殺して火をつけたそうで、焼けて半分なかった家だった。
もうひとつ。
母のおなかにトロチェフさんがいたとき、九州で、「別府の湯」というお芝居した。
右足が悪いハンセン病を病んだ女の人の役であった。
その少女に、日本の学生が恋する話であったという。
その役をやったあと、トロチェフさんが生まれた。
やがてトロチェフさんは右足が悪くなり、切断することになった。
どちらも、トロチェフさんを取材した人はこの話を省いてしまうそうだ。
「日本のインテリ、ファンタスティックな話は、文章に書かない」と言ってトロチェフさんは肩をすくめて笑った。
いま、トロチェフさんを取材に来たある大学のロシア文学専攻の友だちと、ロシアを旅する約束をしているという。実現すれば、トロチェフさんは初めてロシアの土を踏むことになる。
トロチェフさんは、ハバロフスクからシベリア鉄道に乗ってモスクワまで行きたいのだが、先方から疲れるし退屈なので、飛行機にしようと言われているそうだ。
「あなたもいっしょに行きましょう。ロシア語、通訳します」。
トロチェフさんは、日本全国各地を旅行したが、四国にだけは行ったことがない。四国遍路の文化にはかねてから興味があるのだそうだ。
私が四国の出身だと知ると、目を輝かせて、
「ぜひ四国にも行きましょう。
今日、淡路―明石大橋が開通したそうです。ニュースで見ました。
奈良、大倭の『交流の家』にも、行きましょう。
奈良の大倭町から四国へ。橋を渡って。
JRの料金、半額でいい。付添人も半額。
あなたも半額で行ける」。
社交辞令ではなく、トロチェフさんは本気で考えていた節がある。その後も、たびたび自宅に電話をくださり、旅のプランを聞かされた。
私が過去の話を聞きたがっていたのは承知のうえで、それには精一杯応えてくれたが、じつはトロチェフさんが興味があるのは過去のことではなく、未来に向かって、どのようなつきあいができるか。そのことのほうが大切だったような気がする。
ふるさと C・トロチェフ
ふるさとと いう ことば いつも
あまい
ふるさとの おもいで
どんな おもいで でも
なつかしい
ふるさとに のこった人
どんな人でも
いい人
ふるさとに いたときいちばん しあわせに
みえてくる
しかし
このてのまま
このまつばづえの まま
このかおの まま
ふるさとは おもいでに なったまま
のこるながいふゆといたみを ともだちにして はるをまとう……
(『うたのあしあと』土曜美術社出版販売、1998年)
トロチェフさんは、2004年6月、かねてから誘いのあったボストンの修道院に移住した。その2年後の 2006年 1月に病没。享年 77。
2人のふるさとであるロシア旅行も四国旅行も実現しなかったことが、いまとなっては心残りである。
(1996年2月14日、1997年4月4日~5日、栗生楽泉園にて C・トロチェフさんより聞き書き)
コンスタンチン・トロチェフさん
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【関連記事】
大江満雄とハンセン病者
【参考文献】
大江満雄「コロニー問題をこう考える」『全患協ニュース』第101号、1957年8月1日
大江満雄「交流の家」『思想の科学』1964年4月号
大江満雄「むすびの杜をたずねて」『大倭新聞』創刊号、1964年8月31日
大江満雄「あなたたちすばらしいキャンパーたちに」(詩)『キリスト新聞』1964年10月17日
大江満雄「むすびの家」『南国新聞』1965年1月11日
大江満雄「むすびの家」『高原』1965年2月号(『明るい町』11月号より抜粋、とあり)
大江満雄「アジア大学顛末記―楽泉園の教養講座」『おおやまと新聞』第7号、1965年2月23日
大江満雄「『ぼくのロシア』について」コンスタンチン・トロチェフ詩集『ぼくのロシア』昭森社、1967年
大江満雄「『アジア大学』のゆめ」『大倭』第28号、1967年10・11・12月合併
大江満雄「来者の声を」『「交流の家」開所記念行事・『らい』を聴く夕べ』パンフレット、1968年6月24日
鶴見俊輔「山荘に生きる帝政ロシア」『太陽』1963年9月号
鶴見俊輔「根拠地を創ろう」『思想の科学』1964年2月号
今村忠生「フレンズ国際労働キャンプ」(もうひとつの学生運動)『思想の科学』1964年7月号
田中文雄「FIWC関西のライ回復者のための宿泊所建設運動に就いて」『愛生』1964年10月号
光岡良二「奈良大倭あじさい邑を訪ねて」『多磨』1964年12月号
『愛生』編集部「交流の家のことども」『愛生』1968年3月号
FIWC関西委員会「交流の家建設のあしどり」『青松』1968年3・4月合併号(大江満雄の詩「交流」に言及)
いいかわしろう・いいかわりき「交流の家について」『多磨』1969年9月号
今村忠生「大江満雄さんのこと」(追悼大江満雄)『思想の科学』1991年12月号
沢田和彦「女優スラーヴィナ母娘の旅路―来日白系ロシア人研究」『埼玉大学紀要』第32巻第1号、1996年10月
木村聖哉・鶴見俊輔『「むすびの家」物語―ワークショップに賭けた青春群像』岩波書店、1997年
コンスタンチン・トロチェフ『詩集 ぼくのロシア』昭森社、1967年
コンスタンチン・トロチェフ『詩集 うたのあしあと』土曜美術社出版販売、1998年
【栗生楽泉園】
〒377-1711 群馬県吾妻郡草津町大字草津乙647番地
TEL. 0279-88-3030(代表)
FAX. 0279-88-5473
http://www.hosp.go.jp/~kuryu/
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大江満雄(おおえ みつお)
1906年高知県生まれ。15歳のとき水害と貧困苦により一家離散し、父とともに親戚を頼り上京。原宿同胞教会にて受洗。石版工として技術を学ぶかたわら、生田春月主宰『詩と人生』準同人となり詩を書き始める。プロレタリア文学運動が盛んになると、その中心で活躍。そのため治安維持法違反で検挙、獄中転向。以後、戦争詩によって詩壇で名をなす。戦後はヒューマニズムを基調とする抒情的思想詩を多数発表した。詩集に『血の花が開くとき』(1928年)、『日本海流』(1943年)、『海峡』(1954年)、『機械の呼吸』(1955年)、『自選詩集 地球民のうた』(1987年)。この他、ハンセン病者の詩のアンソロジー『いのちの芽』編集・解説。多くの評論、児童文学の作品ものこした。1991年心不全により死去。享年85。没後、『大江満雄集―詩と評論』(思想の科学社、1996年)が刊行された。
木村哲也(きむら てつや)
1971年生まれ。中学3年のとき、東京宿毛会(東京近郊在住の高知県宿毛出身者の集まり)席上で大江満雄と出会う。学生時代、『大江満雄集』編集に加わる。以後、全国のハンセン病療養所を訪ね、大江満雄とハンセン病者による詩運動について取材。「紙碑をたてよう―『大江満雄著作集』刊行の夢」(『土佐すくも人』第11号、1994年)、編集・解説『大江満雄集―詩と評論』(思想の科学社、1996年)、「大江満雄とハンセン病者―交流の軌跡」(『歴史民俗資料学研究』第3号、1998年)、「大江満雄と島比呂志―〈来者〉の声をきく」(『火山地帯』第116号、1998年)、「元『不良少年』による交流への希求―書評・国本衛『生きて、ふたたび』」(『ハンセン病・国家賠償請求訴訟を支援する会会報』第9号、2000年)、「大江満雄と光明園の詩人たち」上・中・下(『楓』第476~478号、2000年~2001年)、編集・解説『癩者の憲章―大江満雄ハンセン病論集』(大月書店、2008年)ほか。
2011年3月の重版情報を掲載しております。
『戦時児童文学論』2刷
『自由主義』2刷
『新版 農業問題入門』12刷
『はじめて学ぶ金融論(第2版)』4刷
『はじめて学ぶ日本近代史 上』7刷
『はじめて学ぶマーケティング[応用篇]』3刷
『国民的最低限(ナショナル・ミニマム)保障』2刷
『子どもの発達と診断3』21刷
『生活とあそびで育つ子どもたち』3刷
『育てにくい子にはわけがある』24刷
『入門ガイド 学童保育指導員』7刷
『たべもの教室3』16刷
『たべもの教室4』15刷
『たべもの教室 別巻2』11刷
『くらべてわかる食品図鑑6』2刷
『考える絵本2』3刷
『算数がすきになる絵本1』3刷
『算数がすきになる絵本3』3刷
「新しい公共」「ソーシャル・キャピタル」「無縁社会」「ソーシャル・メディア」など、コミュニティのあり方や人々のつながり方に関心が集まる現在、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店でこのテーマに関わる書籍120点を集めてフェアを開催中です。
小社からは『GNH』『いよいよローカルの時代』『社会的企業とコミュニティの再生』の3点を選書いただきました。
ぜひお出かけください。
■場所
MARUZEN&ジュンク堂書店 渋谷店
エスカレーターそば フェアコーナー
http://www.junkudo.co.jp/tenpo/shop-MJshibuya.html
■期間
4月末まで
書店様向けに毎月お送りしている新刊案内です。以下からダウンロードしてご利用ください。
大月書店新刊案内2011年4月(PDFファイル)
http://www.otsukishoten.co.jp/files/shinkan/otsuki2011-4.pdf
2011年3月6日の朝日新聞読書欄にて、ジェームズ・ギリガン著(佐藤和夫訳)『男が暴力をふるうのはなぜか』が紹介されました!
「人は、とりわけ男は、なぜ暴力をふるうのか。戦争や自殺まで暴力の概念に含め考察する。著者は、経済大国の中で「飛び抜けて暴力的な国」である米国の刑務所と刑務所内精神科病院を実験場に選び、暴力の原因とその予防を研究してきた精神医学の研究者。暴力を、道徳や法律の問題としてとらえず、コレラや結核のような疾病と同様に、公衆衛生の立場から「予防」するよう、様々な提言をする。特に第3章の「男らしさの証(あかし)としての暴力」は、読んでいるだけで自分の中の荒ぶる気持ちが静かに穏やかになっていくのを感じる筆致だ。」(2011年3月6日『朝日新聞』)
ジェンダー平等と非暴力の地平を見据える比類なき暴力論。ぜひお手にとってご覧ください。
ご好評をいただいております『はじめてよむ童話集』と『かならずわかるさんすうえほん』の新刊児童書2セット、ご入学祝い用の特製セットケースを用意しました。新入学するお子さんやお孫さんへのプレゼントにどうぞ!
『はじめてよむ童話集』セットケース入り(全5巻)
本体6,500円 ISBN978-4-272-40820-7
『かならずわかるさんすうえほん』セットケース入り(既刊2冊)
本体3,600円 ISBN978-4-272-40706-4
【書店様へ】
上記セットケースのほか、『はじめてよむ童話集』については「入学おめでとう」特製POPもご用意しました。下の注文書で「ポップ要」に丸をしてご注文いただければ、ラミネート加工したものをお送りします。
『はじめてよむ童話集』&『かならずわかるさんすうえほん』注文書(Exel)
※POPはこちらからデータでのダウンロードもできます(PDFファイル)
2月18日から24日まで、新作映画『幸せの経済学』の完成ワールドツアーで来日されたローカリゼーション運動のリーダー、ヘレナ・ノーバーグ=ホッジさん。
東京、横浜での完成試写会+トークイベントに出演され、「ローカル化」で幸せの経済を紡いでいこう、と力強く語られました。経済文化をつくるのではなく、文化(私たちがどのような世界をめざしたいか)が経済を育むのだと。
多忙なスケジュールの合間を縫って、辻信一さんとの対談本『いよいよローカルの時代~ヘレナさんの幸せの経済学』(大月書店)へのメッセージをいただいたのでおすそわけです。
http://www.youtube.com/watch?v=X73UU7bTCwY&feature=player_embedded
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■映画の予告『幸せの経済学』
http://www.shiawaseno.net/
■書籍『いよいよローカルの時代~ヘレナさんの幸せの経済学』
http://namakemono.shop-pro.jp/?pid=14317873
小社刊『働く女性とマタニティ・ハラスメント――「労働する身体」と「産む身体」を生きる』(杉浦浩美著、2009年)が、第30回山川菊栄賞(主催:山川菊栄記念会)を受賞しました。
山川菊栄賞は、女性解放運動の先駆者・山川菊栄(1890-1980)を記念し、1981年より実施されているもので、女性問題の研究・調査などに実績を示した個人またはグループに贈呈されるものです。
見事受賞を果たした本書は、女性労働者の「妊娠期の働き方」に焦点をあて、労働と身体の関係をジェンダーの視点から問い直そうと試みた、意欲的な研究です。ぜひこれを機に、お手にとってご覧ください。
■山川菊栄賞贈呈式&ドキュメンタリー完成披露上映会
2011年3月26日(土) 於:東京ウイメンズプラザ
13:15~ 贈呈式
15:15~ ビデオ「山川菊栄の思想と行動 “姉妹たちよ、まずかく疑うを習え”」上映
▼詳細はこちら
http://www.yamakawakikue.com/
書店様向けに毎月お送りしている新刊案内です。
今月より、ホームページからもご利用いただけるようこちらに掲載いたします。以下からダウンロードしてご利用ください。
大月書店新刊案内2011年3月(PDFファイル)
2011年2月の重版情報を掲載しております。
『マルクス自身の手による資本論入門』5刷
『未来社会を展望する』2刷
『あなたの知らないカビのはなし』2刷
『高度成長の時代1 復興と離陸』2刷
『新版 大学生の学習テクニック』7刷
『チックをする子にはわけがある』10刷
『おむつのとれる子、とれない子』9刷
『オックスフォード 科学の肖像 ヨハネス・ケプラー』2刷
『統合保育で障害児は育つか』10刷
『明日の授業に使える小学校家庭科』3刷
『デンマークの子育て・人育ち』8刷
現在刊行中のシリーズ「高度成長の時代」(全3巻)が、第17回田中浩記念《光る風・歴史図書賞》の大賞を受賞いたしました。
これは、歴史書編集者有志の勉強会「歴史編集者懇談会」によって毎年おこなわれているもので、会員の方々の投票で本シリーズが「2010年に刊行された最も優れた歴史図書」に選ばれました。どうもありがとうございます!
最終巻『成長と冷戦への問い』も近々刊行予定です。ぜひお手にとってご覧ください。
山中恒著『戦時児童文学論―小川未明、小川未明、浜田広介、坪田譲治に沿って』が2011年2月7日付の朝日新聞書評欄で取り上げられました!「軍国主義の中での変質を検証」との見出しで、評者は保阪正康氏(ノンフィクション作家)です。
その他、これまでに下記の媒体にも書評が掲載されました。著者渾身の作品をぜひご覧になってください。
南日本新聞 2010年12月26日
徳島新聞 2010年12月26日
秋田さきがけ 2010年12月26日
宮崎新聞 2010年12月26日
山梨日々新聞 2010年12月26日
中国新聞 2010年12月26日
愛媛新聞 2011年1月6日
週刊ポスト 2011年1月7日
沖縄タイムス 2011年1月8日
新潟日報 2011年1月9日
岐阜新聞 2011年1月9日
佐賀新聞 2011年1月9日
日本海新聞 2011年1月9日
山陽新聞 2011年1月10日
新文化 2011年1月13日
静岡新聞 2011年1月16日
神奈川新聞 2011年1月16日
京都新聞 2011年1月23日
北国新聞 2011年1月26日
読書人 2011年1月28日
東京新聞(読書欄) 2011年1月30日
中日新聞(読書欄) 2011年1月30日
ふぇみん 2011年2月5日
『いのちの芽』のあとさき
多磨全生園 国本衛さんに聞く
1950~80年代にかけて、全国のハンセン病療養所に暮らす人びとと詩作をとおして交流をつづけた詩人・大江満雄(1906~91年)の足跡を追って、全国に関係者を訪ねる旅をつづけてきた。
その成果の一端は、『癩者の憲章―大江満雄ハンセン病論集』(大月書店、2008年)にまとめることができた。またこのテーマに取り組むようになったきっかけや取材のいきさつは、ハンセン病市民学会での講演の記緑でお読みいただくことができる。
『癩者の憲章―大江満雄ハンセン病論集』は文字どおり大江満雄の文章を集めたものである。これとは別に、調査の旅の過程で私がお会いした、かつて大江と詩作をともにしたハンセン病療養所に暮らす詩人の皆さんからの聞き書きノートが未発表のまま手元にある。
今年は大江満雄の没後20周年にあたる。また、らい予防法廃止から15周年。ハンセン病国賠訴訟の勝訴から10周年でもある。現在、全国の療養所の入園者の平均年齢は80歳を超え、取材にご協力くださった方がたも、ほとんどが鬼籍に入られた。大江満雄とハンセン病療養所の詩人たちとの稀有な交流の足跡を忘れないためにも、これまで未発表であった聞き書きを、少しずつ発表していきたいと思う。
木村哲也編『癩者の憲章―大江満雄ハンセン病論集』
『いのちの芽』にいたるまで―園内文芸運動の隆盛
私が初めてハンセン病療養所を訪ねたのはいまから15年前の1996年1月5日。自宅から自転車で5分の距離にある多磨全生園を訪ねたのが最初である。
全生園内にあるハンセン病図書館を訪ねると、山下道輔さんが対応してくださった。山下さんには、その後も言葉では尽くせないほどのご協力を得ることになる。どんな質問・相談にも適切に資料の所在をご教示くださったし、お会いするのにふさわしい方を紹介してくださった。
大江が編集したハンセン病者の詩のアンソロジー『いのちの芽』に参加された73人(大江の解説には68人とあるが、実際には73人の作品が掲載されている)が、どこの療養所の入園者なのか。目次の名前の順に、以下の内訳であることが判明した。
多磨全生園 24人/長島愛生園 11人/大島青松園 6人/邑久光明園 11人/星塚敬愛園 5人/菊池恵楓園 5人/栗生楽泉園 10人/神山復生園 1人
そしてまた、「この人は亡くなった。社会復帰した。転園していまどこの療養所にいる。いまは詩を書かなくなっている。この園ではこの人に話を聞くのがいちばんよい」……等々、細かな情報を教えてくださった。これが、以後の全国への取材の旅の足がかりとなった。
手始めに、多磨全生園ではどなたにお話をうかがうことができそうか。
「国本衛さん(国本昭夫名義で『いのちの芽』に詩を寄せている方)がいる」と言ったその時、バタンとドアが開いて偶然現れたのが国本さんその人であった。図書館にあるコピー機を使う用事でたまたま訪ねてきたのであった。
お約束もなしに訪ねてきた私の取材の申し出を、国本さんはその場で快諾してくださったのである。
国本さんの記憶によれば、大江の最初の全生園訪問は、厚生省職員組合にいた原田正二氏と連れだってのものであった。
「昭和26~27年(1951~52年)ころではなかったか。原田さんはそのとき1回来たきりだったと思う。他に大江さんともう1人で来たような気がする。原田さんは大江さんより若く、俺たちよりも12~13歳上かな、という印象。全然しゃべらなかった。ただ患者の文芸への理解は深くて、『エオン』という新聞(後述)、4ページくらいのを出してくれた。その前後、作品の募集があった。全国に、詩を書く連中はいたからね。みんなで応募して、それが『いのちの芽』のもとになった」。
つまり、『いのちの芽』以前に、原田らの『エオン』があり、そのベースに、患者たちの文芸熱があったのだと国本さんは語る。国本さんはその詩運動のリーダーともいえる方なのであった。
1950年、国本さんが23歳のとき、戦前からつづく詩話会を脱退して『灯泥』という詩の同人誌を20代の若い入園者を中心として創刊した。隔月ほどのペースで、1年半で12号を出した。最初の同人は国本さんのほか、白浜浩、船城稔美、谺雄二、奥二郎、右川斗思の6人に、全生園の職員も加わった。谺さんが多磨にまだいたころである(のちに草津に転園)。才能のある仲間たちがいっぱいいた。
国本さんは1941年、14歳で全生園に入園した。よく教会の牧師さんが慰問に来た。病気の絶望のどん底にあって、生きる希望が見いだせない。すがる思いで入信したことがある。
「だけど、牧師さんの話を聞いていても私は救われない、と思った。自分を救うのは、文学以外はないと思った。自己表現の道を選ぶことが自分を救う。そこで、『灯泥』をつくった。どろどろした世界にともしびをともす、という意味。そういう運動をしたいという思いからです」。
1948年、園の機関誌『山桜』(のち『多磨』に改称)で年に1回の文芸特集号を組む。全国の療養所から作品を募った。選者として、阿部知二とか平林たい子とか野間宏といった著名な作家に選者を依頼した。
詩の分野では、大江より早く、詩人の神保光太郎(1905~90年)が選者を担当している。このとき園内の詩人として見出されたのが『いのちの芽』にも参加している厚木叡であった。この他、全生園からは谺雄二、盾木弘、田所靖二の四人が入選する。当時、16~17歳であった。みな若くしてすごい才能を持っていた。
(聞き書きを始めた時点で、神保も厚木さんもすでに亡くなっており、お話をうかがうことはできなかったが、両者の交流の厚さは、資料をたどってもうかがうことができる。神保光太郎の履歴を見ても、ハンセン病者への支援については省かれていることが多い。大江満雄を中心に扱うことで、こうしたその他の先人たちの事績が埋もれてしまうことを危惧する)
「谺くんは谺くんで、私にものすごい興味を持って。当時、私は園内でも札付きの不良少年だったから。内緒で博打をしたりね。だけど、せめて精神的なものを大切にしなきゃいけないと思って詩なんか書いていたけれども。谺くんは私のことを、『ヤクザな文学青年ってどんなものだ?』って興味を持ったらしい(笑)。『灯泥』を呼び掛けて、二つ返事で乗ってきた。彼はここ(全生園)の創作会―北條民雄の置き土産です―に入っていたからね。それで創作活動(小説)を棄てたわけで、よかったのか悪かったのか。『俺のやることは詩を書くことだ』と。私が彼の運命を変えてしまった」。
国本さんと谺さんはこうして無二の親友となるのだが、この関係は、谺さんが群馬県草津の楽泉園に転園されてからもつづくこととなる。
当時、全国の療養所でいろいろな同人誌が出されていた。ガリ版で。モノ、お金がないころだったのに、自己表現に賭ける入園者の文芸運動はもっとも盛んだった。戦後の文芸復興の時期といえた。各園ばらばらで活動していた活動を、全国組織に統一して交流しようと国本さんは考えた。
1953年、『灯泥』は発展的解消。全国療養所詩人連盟を結成して新たに『石器』を創刊。5号までを出す活動をつづけた。
名の通った詩人のところへはそれら同人誌を送った。何人かの人が返事をくれた。
大江満雄のところにも送った。長い長い感想が届いた。それに同人一同、励まされた。
大江の名前は当時、詩壇でも有名であった。『詩学』は中央で出されていた商業誌。総合的役割で、全国の同人誌の紹介などもしていた。他に大きな個人誌に『歴程』があった。そのどちらの詩誌でも大江は活躍していた。定期購読するにはお金がなかったが、『灯泥』や『石器』を送ると、大江はそれらを送ってくれた。現代詩とはどういうものかを教えてくれようとしていた。
当時、大江みたいな人はいなかった。最初の訪問以来、何度も大江は園を訪れた。患者の部屋にまで上がって、お茶を飲んだ。当時考えられないことであった。患者の処遇もひどいころで、特に職員の偏見が根深いことを憤っていた。
以上が、国本さんが語る、『いのちの芽』にいたるまでの動きである。『いのちの芽』は、1953年4月、三一書房より出版された。
大江満雄編『いのちの芽』
理解者をつくろう
国本さんの印象に残っている大江満雄の言葉がある。
「理解者をつくろう。1人は100人、2人は200人」。
大江独特の表現で、国本さんら入園者を励ました。
当時、園には「脱柵」(だっさく)という言葉があった。
全生園には隔離の象徴として、ヒイラギの垣根がはりめぐらされていた。患者の逃走防止のためである。そこを抜けて外へ出ることを「脱柵」といった。映画を見に池袋や日比谷へ国本さんも抜け出した。「伊那の勘太郎」とかを見た思い出がある。入園するとき現金は取り上げられて、園内だけで通用する園券(戦前は5円札が最高。戦後は10円札や100円札も)を持たされていたと言われるが、正金(しょうきん)のほうもみんな当たり前に隠し持っていた。
福祉室のことを「見張り」といい、見張りの職員のことを「監督」といっていた。
つかまったら監房に入れられる。人の耳に入ったらまずいので、国本さんも人には言わずに、1人で脱柵した。「不良少年」と言われる所以である。
1960年代に入ると、入園者の気持ちが外へ外へと変わっていった。脱柵する人も増え、ヒイラギの垣根の決まった場所に穴があけられたりした。
「やっぱりそれは若者が中心だろうね。昭和30年代後半(1960年代前半)、垣根を低くした。ただ、患者の側にも抵抗があったんだ。長い間閉じ込められていた者の生活に馴らされて。外の人にじろじろ見られるのが嫌だとか。外の人と顔を合わせても平気で散歩できるまで相当の時間がかかった。周囲が全部雑木林だったのが、昭和40年代(1960年代後半)に入ってどんどん宅地化していった。患者のために垣根を低くするのを、昭和40年代ではなく、30年代のうちにやっておいてよかったと思う。解放されなければならないという自覚を患者のほうが持つことが大事なことでしょう」。
『いのちの芽』が出版された1953年は、らい予防法闘争の年として記憶される。戦前からつづく癩予防法の戦後の改正(改悪)に、全国の患者たちが猛烈な反対運動を展開したものである。
この支援にも大江は深く関わる。
患者運動を支援する団体として「らい患者の人権を守る会」が結成された。
療養所外部の文化人を中心としたもので、参加者として、阿部知二(全生園の文芸特集号の選者をしてもらったことがあり、患者のほうから声をかけたはずと国本さんは言う)、平林たい子(愛生園で創作の選者をしていた。全生園の国本さんの先輩である国満静志が「漂泊の日に」という創作で入選した。予防法闘争のとき、手紙を書いたら国会の座り込みに激励に来てくれたのを国本さんは覚えている)、海野晋吉(弁護士)など。
そんななかで、大江がいちばん熱心に動いてくれた。
たとえば、大江は『新日本文学』(1953年2月号)に「癩者の憲章」という詩を書く。ハンセン病者とともにあろうという意思をうたいあげた作品で、一般の読者に理解を呼び掛ける内容であった。
そのことの意味を、現在の患者組織自体があまりよくは知っていないのだと国本さんは言う。
当時、大江は西武池袋線沿線の東長崎に住んでいた。全生園に来るには同じ沿線の清瀬で下車すればよいから、ふらっと来ては患者の部屋に上って話し込んでいった。そんな来訪の仕方ばかりであったから、園の正式な来園記録には名前は残っていないはずだという。記録に残らない、そういう動き方をした。
詩人の小野十三郎が、「大江満雄は後進を育てるのは上手だが、自分を育てるのには頓着しない」と評していたことを、思い当たるところが国本さんにもあったので、よく覚えている。自分の名を売るということを全く考えない人だった。
多磨全生園よりむしろ、草津の栗生楽泉園、瀬戸内海の長島愛生園のほうが、大江との関係は深いと国本さんは言う。
草津の楽泉園では1953~55年、詩の選評を担当した。
長島では早くから永瀬清子が詩の選評をしていて、大江は晩年1976~90年まで担当。
さらに、個人詩集の刊行を勧め、出版社を紹介する労を惜しまなかった。ハンセン病療養所の詩人たちの詩集の多くが、大江の支援によって世に送り出された。「理解者をつくろう」の実践を、晩年までつづけたのである。隔離政策の分厚い壁の中にいる詩人たちにとって、どれほど励まされたことだろうか。
ライはアジア
国本さんは本名を李衛(イ・ウイ)という。1926年、朝鮮全羅南道に生まれた。
国本さんの父は朝鮮では大地主であったが、日韓併合(1910年)で没落。そのころ母と結婚して国本さんを出生。生活できず、単身日本にやって来た。茨城県の土浦に住んだ。朝鮮と日本を何度も往復していたが、生活が落ち着き、やがて家族を呼び寄せる。国本さんが4歳のときであった。
国本さんには妹がいるが、妹は土浦生まれ。妹と2人兄妹。9つ違いと歳が離れていて、すごくかわいがった。子守りから何からして、ものごころついてからはお兄ちゃんお兄ちゃんとなついてくれた。あるとき妹がウサギのえさをとりに草をとりに行って、川に落っこちた。無我夢中で飛び込んで助け出して、自転車に乗せて帰った。その日のことを、作品であらわしたいなあと思いながら、力不足でどうしても表現できないと国本さんは回想する。何回も試みたが、うまくいかなかったという。
その妹の思い出を詩に描く試みは、『いのちの芽』所載の次の作品からもうかがうことができる。
幼な笑みよ 国本昭夫
いもうとよ
私の胸の中に住む幼な顔よ
お前は
涙を流し私がふる里を旅たった日を
おぼえているだろうか。
どんよりした駅のホームで
父や母と
何を語り合ったか
知っているだろうか。
一と晩中 机にもたれ
私が何を書いていたか
知っているだろうか。
別れの道で
何も知らずおどおど泣いていた いもうとよ。
私の胸の中に住むお前よ
いつもあどけない幼な顔よ
お前の胸の中に
私がどのように映っていた事か。
ふたりが楽しく小川に遊び
ぬれながら家に帰った日
お前は母にしかられ
夜ぴて泣いた。
暗い部屋で
ふたりは頭と頭をすれ合せた(ママ)
あの時の
ほほえみよ。
幼な笑みよ。
大江は、「世界の癩に関する年譜」を作成して『いのちの芽』付録として巻末に収めた。愛生園の志樹逸馬とともに国本さんも協力した(協力者の名前が誤植で「岡本」となっている)。
このとき、大江は、国会図書館に足しげく通い、大変な努力をしていることを国本さんは知っている。全生園の医官の田尻敢を紹介したのも国本さんであった。田尻の資料と大江手持ちの資料とを合わせて年表は完成した。貴重なものである。
古代から現代にいたる射程で、世界各地の事象をできる限り集めて、この年表を作成している。大江がどのような視野でこの問題に取り組んでいたかがわかろう。この年表の視野をもってすれば、WHO(世界保健機関)の国際会議で、強制隔離政策をとりつづける日本の政策が批判されていることなども、当然視野に入ってくる。
国本さんと初めてお会いした日の晩、国本さんから私の自宅に電話がかかった。
先述の『エオン』が出てきたから、取りに来いという。
『エオン』創刊号の巻頭に、大江も文章を寄せている。「アジヤ病のためにアジヤの詩人の協力を」。
大江の生涯を通じてくりかえされる主張のひとつに、「ライはアジア」という言葉がある。ハンセン病問題を考えるうえで、日本のことだけを考えてはならない。ハンセン病はアジアに多いから、アジアの人たちとともにこの問題を考えようという呼びかけである。
「大江さんの『ライはアジア』という言葉。さんざん聞かされたけど、こんな早くから書いていたんだなあ!」
電話の向こうで国本さんも感に堪えない様子であった。
いまようやく、ハンセン病問題を考えるとき、日本のことだけを考えてはいけないという声が出はじめている。ひるがえって「ライはアジア」と大江が言ったのは、1952年、半世紀も前のことなのである。
『エオン』創刊号
国本さんが詩を書くことは、病気したことがきっかけでやめた。結核に苦しみ、特効薬のパスで胃に穴が開いた。胃の手術をして、手術の副作用で自律神経失調症に悩まされた。それが原因で筆を絶った。
偏見、差別の中で育って、つねに支えてくれたいろんな人たちがいて、人生の節目節目に転機があった。絶望のどん底があったり。手を差し伸べてくれたのはつねに日本人だった。いろんな人の中の一人が大江満雄。
国本さんが自らの民族意識に目覚めたのも、大江との出会いによるところが大きかったと述べている。その後、在日韓国・朝鮮人ハンセン病患者同盟委員長として、全国の療養所に暮らす多くの在日外国人の待遇改善にも力を尽くした(国本衛『生きる日、燃ゆる日』毎日新聞社、2003年)。
「『国さん、あんたが在日だから言えたんだ、日本人には言い出せないよ』と谺くんから言われたが、在日だからというのは違うんじゃないか。日本人としてそのようにならなきゃいけないんじゃないか。それが大江さんの言っていたことなんだから」。
国本さんが主導して実現した療養所内の国籍格差を無くすとりくみは、「ライはアジア」の思いに共鳴した人びとによって、大江の希望が受け継がれたことを示している。現在では、大江の名前など知らない多くの日本人が、アジア各地のハンセン病問題に取り組む例はさらに増えていよう。
晩年の国本さんは、自らの生きてきた道を子どもたちに聞かせてほしいと依頼を受けて、各地の学校を飛び回っていた。
「そこで、大江さんの名前を出すようにしています。あなたが思い出させてくれました」と、あるときハガキをくださったことがある。
らい予防法の廃止と違憲国賠訴訟
大江満雄の晩年、「四万十川」の詩碑が故郷の高知県に建てられるとき、全国の療養所の入所者がカンパの協力をした。全生園では国本さんがまとめ役をした。1991年の詩碑の除幕式には詩人の村松武司と行く約束をしていたが、都合が合わず行けなかったのを今でも悔やんでいる。
それでも亡くなるまで、切れ目なく大江との交流はつづいた。1991年の大江の葬儀にも参列した。
私が初めて国本さんにお話をうかがった直後の1996年3月、らい予防法は廃止された。
藤楓協会理事長(元厚生医務局長)の大谷藤郎氏が、廃止に向けて尽力した。
それまで入園者たちは「廃止」ではなく「改正」と言ってきた。「廃止」を言うことはタブーとされてきた。廃止すると国からいますぐ療養所を出て行けと言われるかもわからないという不安感。社会に放り出されても身寄りのない高齢者は生きていけない。入園者から廃止を打ち出せないというのは、それまでいかにひどい仕打ちをされてきたかということのあらわれでもあった。
らい予防法は廃止されたが、国の責任は明確にされないままであった。その点を明らかにするために九州の療養所を中心としてハンセン病違憲国賠訴訟が提訴された。東日本でも、瀬戸内の療養所でも、その裁判に呼応する動きが広がっていった。
1993年、国本さんは原告に加わり、東日本原告団の事務局長を務めた。
国本さんだけでなく、国賠償訴訟の原告として指導的役割を担った幾人かは、『いのちの芽』以来、大江とともに詩を書き、理想を語り合った人びとであった。星塚敬愛園(のち社会復帰)の島比呂志さん、栗生楽泉園の谺雄二さん、邑久光明園の中山秋夫さん・・・等々。
そして、2001年の歴史的勝訴。判決によって国の政策の過誤は明らかになったが、40年余におよぶ大江とハンセン病療養所の詩友たちとの交流が、伏流水となって歴史を動かした側面があることが重要だ。大江の活動は、たんに文学活動のみにとどまらず、社会的拡がりをもっていた。
国本さんに即して言えば、元不良少年の交流への希求が、晩年みのったのである。
2008年3月21日、国本衛さん逝去。81歳であった。
(1996年1月5日、1998年5月17日、多磨全生園にて 国本衛さんより聞き書き)
国本衛『生きる日、燃ゆる日』
国本衛『生きて、ふたたび』
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【関連記事】
大江満雄とハンセン病者
【参考文献】
『大江満雄集―詩と評論』全2巻(思想の科学社、1996年)
『癩者の憲章―大江満雄ハンセン病論集』(大月書店、2008年)
神保光太郎・詩の選 『山桜』1948年11・12月合併号 一等に厚木叡「伝説」
厚木叡「山桜詩雑感」『山桜』1949年8月号
神保光太郎・詩の選 『山桜』1949年10・11月合併号(多磨全生園創立40周年記念文芸特集号) 一等に厚木叡「聖母子」
厚木叡「神保光太郎先生歓迎詩話会記」『山桜』1950年12月号
大江満雄・詩の選 『山桜』1952年6月号(全国自治会創立5周年記念文芸特集号)
大江満雄「アジヤのためにアジヤの詩人の協力を」『エオン』創刊号、1952年7月
大江満雄「癩者の憲章」『多磨』1953年3月号(『新日本文学』1953年2月号より転載)
大江満雄編『いのちの芽』三一書房、1953年4月
国本昭夫「詩集『いのちの芽』について」『多磨』1953年5月号
大江満雄「『木がくれの実』の対話性」『多磨』1953年8・9月合併号
ライ患者の人権を守る会事務局「ライ患者の人権を守る会」『多磨』1953年10月号
大江満雄「表現が外へ向きだしたということにふれて 選後の感想」『多磨』1953年11月号
大江満雄「新しい市民性をもった詩について」『多磨』1955年8月号
厚木叡「多磨詩壇の戦後十年」『多磨』1955年9月号
清瀬・教育ってなんだろう会編、国本衛ほか著『はじめに差別があった―「らい予防法」と在日コリアン』(現代企画室、1995年)
国本衛『生きて、ふたたび―隔離55年 ハンセン病者半生の軌跡』(毎日新聞社、2000年/増補版2001年)
国本衛『生きる日、燃ゆる日―ハンセン病者の魂の軌跡』(毎日新聞社、2003年)
【多磨全生園】
〒189-8550 東京都東村山市青葉町4-1-1
TEL. 042-395-1101(代表)
FAX. 042-394-2410
http://www.hosp.go.jp/~zenshoen/
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大江満雄(おおえ みつお)
1906年高知県生まれ。15歳のとき水害と貧困苦により一家離散し、父とともに親戚を頼り上京。原宿同胞教会にて受洗。石版工として技術を学ぶかたわら、生田春月主宰『詩と人生』準同人となり詩を書き始める。プロレタリア文学運動が盛んになると、その中心で活躍。そのため治安維持法違反で検挙、獄中転向。以後、戦争詩によって詩壇で名をなす。戦後はヒューマニズムを基調とする抒情的思想詩を多数発表した。詩集に『血の花が開くとき』(1928年)、『日本海流』(1943年)、『海峡』(1954年)、『機械の呼吸』(1955年)、『自選詩集 地球民のうた』(1987年)。この他、ハンセン病者の詩のアンソロジー『いのちの芽』編集・解説。多くの評論、児童文学の作品ものこした。1991年心不全により死去。享年85。没後、『大江満雄集―詩と評論』(思想の科学社、1996年)が刊行された。
木村哲也(きむら てつや)
1971年生まれ。中学3年のとき、東京宿毛会(東京近郊在住の高知県宿毛出身者の集まり)席上で大江満雄と出会う。学生時代、『大江満雄集』編集に加わる。以後、全国のハンセン病療養所を訪ね、大江満雄とハンセン病者による詩運動について取材。「紙碑をたてよう―『大江満雄著作集』刊行の夢」(『土佐すくも人』第11号、1994年)、編集・解説『大江満雄集―詩と評論』(思想の科学社、1996年)、「大江満雄とハンセン病者―交流の軌跡」(『歴史民俗資料学研究』第3号、1998年)、「大江満雄と島比呂志―〈来者〉の声をきく」(『火山地帯』第116号、1998年)、「元『不良少年』による交流への希求―書評・国本衛『生きて、ふたたび』」(『ハンセン病・国家賠償請求訴訟を支援する会会報』第9号、2000年)、「大江満雄と光明園の詩人たち」上・中・下(『楓』第476~478号、2000年~2001年)、編集・解説『癩者の憲章―大江満雄ハンセン病論集』(大月書店、2008年)ほか。
ジュンク堂書店姫路店様と明石店様で「考える絵本」ミニフェアが開催中です。
冬休みまでの予定でしたが、好評のため春休みまで延長いただいたとのこと。
ご近隣の皆様、ぜひ足を運んでみてください。
会場:ジュンク堂書店 姫路店・明石店 いずれも児童書コーナー
期間:4月初旬までの予定
このたび大月書店でも「ツイッター」を開始しました。
http://twitter.com/otsukishoten
当ホームページでもご紹介している新刊情報、イベント告知などのほか、本にまつわる話題や書店様向けのご案内などを、よりスピーディーにお届けいたします。ツイッターのもつ双方向性が、読者の皆様との交流をより深めることに役立てばと願っております。
すでにご利用の方も、これを機会に始めてみようという方も、フォローよろしくお願いいたします。@つきで本のご感想をお寄せいただければ、可能な限りリプライさせていただきます。
ジェームズ・R・フォルケル著(林大訳)『ヨハネス・ケプラー』が2010年11月28日付の朝日新聞で取り上げられました!「時代と人の所産であることを知れば科学はぐんと近くなる。格好の入門書」(辻篤子・朝日新聞論説委員)。
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ケプラーは、太陽の周りを楕円を描いて回る惑星の運動法則に名を残す。いうまでもなく地動説を前提とするが、同時代のガリレオと違って、迫害されなかったのはなぜだろう。
ある天文学者と話していて、そん話題になった。法則はおなじみでも、生みの親のことは、案外知られていない。
最新の伝記である本書によれば、ケプラーは17世紀、神聖ローマ帝国数学官という高い地位にあり、皇帝の厚い庇護の下にあった。一方で、宗教戦争に翻弄されて苦難も度重なり、魔女裁判にかけられた母の弁護に当たる、という試練もあった。
そうした中で、宇宙時代の今も揺るがない惑星の運動法則を見抜いたことに、改めて驚く。アインシュタインに相通じるケプラーの知性の真の価値を、学者たちは科学的思考が本格化した時代になって初めて完全に理解できた、と著者はいう。
10代からおとなまで、をうたい、全21巻で刊行が進む「オックスフォード 科学の肖像」シリーズの中の一巻である。時代と人の所産であることを知れば科学はぐんと身近になる。格好の入門書ともなっている。
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▼「オックスフォード科学の肖像」シリーズ既刊はこちら
http://www.otsukishoten.co.jp/search/s2520.html#searchResult
12月23日(木・祝)に『考える絵本7 しあわせ』の刊行イベントが開催されます。
出演者は、著者の辻信一さん(文化人類学者、環境運動家)、森雅之さん(漫画家)、そして物語のモデルとなった、九州を拠点に活動する有機コーヒー・フェアトレードの草分け「ウィンドファーム」の中村隆市さんです。
ナビゲーターには、スロービジネスを展開する藤岡亜美さんをお迎えし、さらには数組のプレゼンターも交えて、フェアトレードやしあわせについて語り合います。
当日は、ひとりギター弾きうたい・リコーダー吹きのOraNoa(オラノア)さんによるアコースティックライブも開催。あたたかな蜜蝋キャンドルを灯して、新しい文化の作り手と、ゆったりとした時間を過ごしませんか。
「一杯のコーヒーからしあわせを考える~つむぎ はぐくむ フェアトレードのお話」
*日時:12月23日(木・祝)17:30~20:00(17:00開場)
*場所:カフェスロー(JR国分寺駅南口より徒歩5分)
*出演:辻信一、森雅之、中村隆市他(ナビゲーター:藤岡亜美)
*音楽:OraNoa(オラノア)/ギター・唄
*参加費:予約1300円、当日1500円、学生1000円(ワンドリンク付)
*お申し込みはカフェスローへ(http://www.cafeslow.com/apply.html)
同時開催
◆『考える絵本7 しあわせ』森雅之原画展
*会期:2010年12月22日~27日(11:30~)
*場所:スローギャラリー(カフェスロー内)
〒185-0022東京都国分寺市東元町2-20-10
TEL:042-401-8505/http://www.cafeslow.com/
近日開催
◆『考える絵本7 しあわせ』森雅之原画展
*会期:2011年1月5日~31日(予定)
*場所:カフェぶらぶら
〒057-0013 北海道浦河郡浦河町大通り4丁目
TEL:0146-22-4033/http://www.cafeburabura.info/
小社から『戦時児童文学論――小川未明、浜田広介、坪田譲治に沿って』を刊行したばかりの山中恒さん(児童文学作家)と石坂啓さん(漫画家)のトークイベントが開催されます。
◆マガ9学校 第4回
「子どもの本と戦争 ~児童書における戦争プロパガンダ~」
*講師:山中恒さん(児童文学作家)×石坂啓さん(漫画家)
*日時:2010年12月4日(土)15:00~17:30(14:30開演)
*場所:カタログハウス本社地下2階セミナーホールにて(新宿南口徒歩7分)
*参加費:1500円(学生1000円)
*本のサイン会も行います。
*申し込み http://magazine9.jp/gakko/004/
●作家はいかにして戦争協力したのか?
山中恒さんはこのたび、『戦時児童文学論 小川未明、浜田広介、坪田譲治に沿って』(大月書店)を11月中旬に上梓されました。本の中で山中さんは「国歌総力戦体制下では、作家や子どもたちの内面まで国家が介入し、荒廃をもたらすものである」と書いています。この本にも紹介している「戦争プロパガンダ」に使われた「紙芝居」や「児童書」の実物を見せていただきながら、ご自身の実体験にも絡めて語っていただきます。
●現在における作家と表現の自由の関係は?
さて戦後65年を経て、民主主義と自由を手にした私たちですが、現在における児童文学や漫画作家をとりまく環境はどうでしょうか。山中作品への参加も多い漫画家の石坂啓さんには、近ごろ気になる「作家と表現の自由」について、おおいに語っていただきます。
★プロフィール
山中恒(やまなか ひさし) 児童文学作家
1931年北海道小樽市生まれ。早稲田大学在学中に早大童話会に所属し、卒業後から児童文学の創作をはじめる。『山中恒児童よみもの選集』で巌谷小波文芸賞、『とんでろじいちゃん』で野間児童文芸賞、第38回エクソンモービル児童文化賞を受賞。映画化された作品に「転校生」、「さびしんぼう」(大林宣彦監督)他。戦時下を描いた作品に『ボクラ少国民』シリーズ(辺境社)、『すっきりわかる「靖国神社」問題 』(小学館)、『アジア・太平洋戦争史』(岩波書店)、『戦争ができなかった日本~総力戦体制の内側』(角川書店)など多数。
石坂啓(いしざか けい) 漫画家
1956年愛知県生まれ。故手塚治虫氏に師事し、漫画家デビュー。漫画、エッセイの他、著書に『学校に行かなければ死なずにすんだ子ども』(幻冬舎)、『悪』(大月書店)など。山中恒氏とのコンビでの児童文学作品も多い。『週刊金曜日』『マガジン9条』発起人の一人。
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ご利用方法
PCでご覧の場合:上記のリンクを右クリックし、「対象をファイルに保存」(Internet Explorer)、「名前をつけてリンク先を保存」(Firefox)などからPDFファイルを保存してください。PDFファイルをご覧になるにはAcrobat Readerが必要です。
iPadでご覧の場合:「i文庫HD」「GoodReader」などのアプリがインストールされていれば、下記URLを直接入力してダウンロードいただけます。または、PCでダウンロードしたPDFファイルをiPadに同期してください(ブラウザから直接ダウンロードはできません)。
http://www.otsukishoten.co.jp/files/trial/bethel_sumple.pdf
小社刊『世界の「平和憲法」 新たな挑戦』の著者、笹本潤氏(弁護士/「9条世界会議」発起人の一人)のトーク会があります。
9条を掲げ、世界各地をおとずれている笹本弁護士が見た、聞いた「平和憲法」の動向や世界の人々の生の声を写真や映像をまじえて報告します。
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世界の平和憲法にご興味のある方、旅行のお好きな方も気楽にご参加ください。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
日時:11月18日(木)午後6時より
場所:茶房 高円寺書林(JR中央線 高円寺駅北口徒歩4分)。
参加費:資料代・1ドリンク付き1000円。
連絡先:茶房 高円寺書林(電話 03-6768-2412 または、メール sabo.kouenjishorin@gmail.com )
※会場のスペースが20席なので、予約者優先になりますが、当日の飛び入り参加歓迎です。
「マガジン9」の好評連載「雨宮処凛がゆく!」にて、『べてるの家の恋愛大研究』をご紹介いただきました。
雨宮さん自身も恋愛の「誤作動」経験が豊富にあると振り返りつつ、「本書を読み、なんだかたまらなく元気を貰った。世間では精神障害などを抱える人に結婚や出産どころか「恋愛」が「禁止」されているような状況がいまだあるわけだが、本書には、病気や障害のあるなしに関係なく、「子育て」にまつわる目が覚めるような実践が随所に示されている」「人が「共に生きる」ことについて、大いに考えさせられる一冊」と書いてくださっています。
ぜひ「マガジン9」のサイトでご覧ください。
フランク・ヴェスターマン著(下村由一訳)『エル・ネグロと僕』が2010年10月24日の『毎日新聞』で取り上げられました!「体験と追跡調査と思索が一体となった読みごたえのある本である」(評・池澤夏樹氏)。
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◇肌の色による差別と開発援助
一九八三年、オランダ生まれの十九歳の若者が気ままな旅の途中、スペインの田舎町の博物館で驚くべきものに出合った。
人間の剥製(はくせい)!
とても小柄な黒人で、槍(やり)と盾を持っている。「カラハリ産ブッシュマン」という表示がある。しかしそこで売っている絵はがきには「ベチュアナ人」とあった。
この博物館の創始者フランシスコ・ダルデルは一九一八年に亡くなっている。つまり剥製はそれ以上に古いものだが、それにしても……
この出合いを記憶したまま、若者は開発援助の専門家を目指す。しかし、座学を終えていざ貧しい国の現場に立ってみると湧(わ)くのは疑問ばかり。貧富の差、それを助長する社会、役に立たない援助、そして肌の色による差別と偏見。
ペルーの山奥の村で、反政府組織センデーロ・ルミノソの襲撃に怯(おび)えながら、その村の灌漑(かんがい)システムを調査する。不自由な生活や村人の誤解を乗り越えて得た結論は、ここの灌漑には援助などしない方がいいというもの。この地域の自然と精緻(せいち)に組み合わされた現行システムは外から手を加えれば壊れてしまう。「介入しないのが最善策」
この体験を機に彼は開発援助の仕事を捨てて新聞記者になった。最初の仕事はバルガス=リョサも候補者だったペルーの大統領選だ(今回のノーベル文学賞受賞者はこの選挙でフジモリに敗れた)。
そして、時間を見つけてはあの剥製の来歴を調べ始める。名前もなく、出身地はおろか種族さえ曖昧(あいまい)にただ「エル・ネグロ(黒人)」とだけ呼ばれる男。スペインの古い新聞の記事を探して、これが一八八八年のバルセローナ万博で展示されたと知り、そこからたぐってヴェロー兄弟なる二人が一八三〇年か三一年に「アフリカ南端、喜望峰」からこれをフランスに持ち帰ったことを突き止める。
新聞記者として取材に行ったシエラレオネでは、すっかり壊れてしまった国を見て、アフリカなどの貧しい国々と先進国との関係について考え込む。
第二次大戦後、世界各地で植民地が独立した。宗主国のくびきを逃れた以上、彼らは豊かな国を作れるはずだったのに、そうはならなかった。どこで失敗したのだろう?
「認めるのはつらいことなのだが」と前置きして、ヴェスターマンは開発援助の動機の根本には人種差別がある、と言う。白人のやりかたの方が優れているからそれを教えてやるという態度。また受ける側のそれに迎合する姿勢。そこからは形を変えた従属の構図しか生まれない。
振り返ってみれば、ペルーの村の住民は外来の彼に改善を期待した。何か新しいものをもたらして村の生活を一変してはくれないか。コンクリートで水路を固めたら保守作業が不要になる。しかし、「集団作業の必要がないとなると、村をひとつの共同体にまとめてきた伝統が失われる」というのが彼の結論だった。
エル・ネグロの探索の方も進む。十九世紀に人間を剥製にするようなことがなぜ許されたのか? 「黒人が白人より劣っていることは、歴史家も比較人種解剖学者も口を揃(そろ)えて確認するところである」というような言説が世間の主流だった。だから、さまざまな人種の遺体が標本として研究機関に持ち込まれた。あるいはそれが見世物(みせもの)になることもあった。
日本でも一八六五年に函館でイギリスの領事がアイヌの墓を暴いて骨を盗み出すという事件があった。これも目的は人類学の資料だった。
一九九一年、スペインではアルセリンという黒人の医師がアフリカ人の剥製の展示に反対する運動を始め、さまざまな議論とどたばた騒ぎを経たあげく一九九七年に「エル・ネグロ」は撤去された。後に解体されてアフリカのボツワナに返されたが、そこは彼の本当の故郷ではなかった。すべてを政治が歪(ゆが)める。
ヴェスターマンは開発援助や旧植民地の事情の報道に携わった半生をユーモラスに振り返りながら、これらすべての問題の底流にある構造化された差別意識について考える。
先進国の人間は自分たちが豊かな理由を教えてやると言って今も旧植民地をいいように利用しているのではないか。欧米の文明に背を向けて本来の道を歩めば、金銭まみれとは別の幸福があるのではないか。
最後に南アフリカに行ったヴェスターマンは(ヴェロー兄弟は盗んだ遺体をケープタウンで剥製にした)、アパルトヘイトが終わったこの国で意気軒昂(けんこう)な黒人たちを前にしてまた考え込む。「あなたが白人のくせに、エル・ネグロについて本を書く」ということに不快感を覚える者もいると言われる。
長くこの国を支配していた白人はオランダ系であり、それゆえにオランダ人である彼はまた考え込む。それでもこれはヨーロッパの問題だ、加害者はヨーロッパ人だったのだからと心の中で反論する。
体験と追跡調査と思索が一体となった読みごたえのある本である。
(毎日新聞 2010年10月24日 東京朝刊)
http://mainichi.jp/enta/book/hondana/news/20101024ddm015070015000c.html
小社刊『きみは地球だ』の著者デヴィッド・スズキ氏と、その娘で同じく『わたしと地球の約束』の著者セヴァン・スズキ氏親子の姿を描いたドキュメンタリー番組が、10月11日(月・祝)午前9時20分からNHK総合テレビで放送されます。
「最も偉大なカナダ人」と言われる父デヴィッドと、かつてリオの環境サミットで伝説のスピーチをおこなった娘セヴァン。カナダの美しい大自然のなかで、地球環境を守る活動に身を投じてきたふたりの生き方に迫ります。
さらにNHK・BS1でも「デヴィッド・スズキの世界」という番組が3夜連続で放送。ともにお見逃しなく!
■「いのちのつながりを伝えたい~スズキ親子・カナダからのメッセージ(仮)」
10月11日(月・祝)午前9時20分~ NHK総合テレビ
http://www.nhk.or.jp/savethefuture/program.html
■「デヴィッド・スズキの世界(1)~(3)」
10月12日(火)、13日(水)、14日(木)午前0時~ NHK・BS1
http://www.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/101011.html
http://www.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/101012.html
http://www.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/101013.html
小社刊『知られざる宇宙――海の中のタイムトラベル』の著者フランク・シェッツィング氏が、NHK・BS1「世界のドキュメンタリー」に3夜連続で登場します。
テーマは「海のタイムトラベル」。海はどのように生まれ、海のなかで生物はどのように進化してきたのか。そして、これから海はどのように変化していくのか。世界の科学者たちがこの10年の間に集積してきた膨大なデータをもとに、地球における海の誕生、数十億年に及ぶ生物の進化、そして海の未来像を描き出します。
■「海のタイムトラベル(1)~(3)」
10月15日(金)、16日(土)、17日(日)午前0時~ NHK・BS1
http://www.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/101014.html
http://www.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/101015.html
http://www.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/101016.html
西脇巽著『高齢者がうつ病になるとき』が2010年10月1日の西日本新聞(朝刊)で紹介されました。
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著者は刑事事件での精神鑑定も担当する精神科医。60歳以上の高齢者について、うつ病を誘発しやすい性格や状況について解説した。実際に担当したうつ病患者の治療経過なども紹介する。
そうした考察を経て、著者は「mustからの解放」を訴える。「われわれは…であらねばならない」と言う気持ちが自己否定、ひいてはうつ病を誘発する。そこからの脱却が予防につながると指摘する。
うつ病には性格や生活環境、脳内物質の影響という発症要因がある。高齢になって初めてかかる場合、生活環境の変化、つまり高齢者を取り巻く現代の社会的背景が大きく左右しているのではないかと訴える。
(2010年10月1日付 西日本新聞朝刊)
「オックスフォード科学の肖像」シリーズの店頭宣伝用素材をこちらからダウンロードいただけます。
フェア台のサイズや内容に応じてカスタマイズいたしますので、お気軽に営業部(渡辺)までご連絡ください。
ジュンク堂書店福岡店で「平和の棚の会」の全点フェアが開催中です(16社が参加、800点を超える平和・非暴力についての書籍を展示。9月30日まで)。
先ごろまで開催していた池袋本店・ロフト名古屋店でのフェアも大盛況でした。ぜひお立ち寄りください!
▼詳しくは特設サイトにて
http://www.junkudo.co.jp/heiwa2010.html
▼平和の棚の会ブログ
http://heiwatana.exblog.jp/


スポーツファンにはおなじみの雑誌『Number』(文藝春秋)。2010年9月16日号(第761号)の特集は「アスリートの本棚。」という実に興味深いものなのですが、そのなかでサッカー日本代表・長谷部誠選手が、「オールタイムベスト5冊」として小社刊『増補新版 アインシュタインは語る』を挙げてくださいました!
現在、ドイツのヴォルフスブルクに所属する長谷部選手は、自分が生活する国の歴史や人々の気質も知っておきたいと、ドイツ関連の書籍に目を通すなかで本書に出会ったとのこと。「刺激を受ける言葉も多いし、『偉人』ってイメージしかなかったけど、読んでみて、この人も普通の人間だなって思えるところもあった」。本書のなかで共感した言葉は、《他人(ひと)のために生きる人生だけが生きがいのある人生だ》だといいます。
ちなみに、そのほかの「オールタイムベスト」は、松下幸之助『道をひらく』(PHP研究所)、本田宗一郎『本田宗一郎 夢を力に』(日経ビジネス人文庫)、姜尚中『悩む力』(集英社新書)、太宰治『人間失格』(新潮文庫)。「本を読むのは、心の筋トレみたいなものかな」。サッカーワールドカップ・南アフリカ大会で堂々たるリーダーシップを発揮できた理由が、本棚から見えるような気がします。
『Number』
http://www.bunshun.co.jp/mag/number/index.htm
小社刊『食とたねの未来をつむぐ』『つながりを取りもどす時代へ』の著者、ヴァンダナ・シヴァ氏(インドの科学者、環境活動家)が9月に来日し、「国際ペン東京大会2010」で講演します(9/29)。
シヴァ氏は環境保全や女性の人権を守る運動に深くかかわる実践家であり、開発、農業、グローバル化などさまざまな問題について積極的に発言する世界的なオピニオン・リーダーでもあります。
生(なま)の発言にふれることができる、またとない機会です。ぜひご参加ください。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
国際ペン東京大会 2010
《国際環境文学者会議「環境と文学 -いま、何を書くか」》
9月29日~30日 京王プラザホテル(東京・新宿)
▼詳しくはこちら
http://www.japanpen.or.jp/convention2010/cat87/post_222.html
場所:ジュンク堂書店難波店(千日前店ではありません)3階児童書コーナー
期間:8月末まで予定
書店員さんが作ってくださった「感想文ポスト」です!
以下は、企画者のひこ・田中さん(シリーズ共同編集)によるご紹介です。
夏休みにじっくり考えてみる事をしませんか?
「こころ」「死」「悪」「人間」「美」「子ども・大人」「愛」。七つのテーマにあわせた色んな本、例えば「死」をテーマにした子どもの本から大人の本までを、書店の各部門の担当者が選び、それらの本が一堂に会します。
ですから、子どもには難しい本も並んでいます。でも、子ども向けにかかれたテーマを実は、大人になってからもずっと考えていることを、見に来た子どもに知ってもらいたいと思い、企画しました。
児童書はグレードで分けられて配架されますが、書かれている中身は繋がっていることを。子どもに知って欲しい。
そして、大人のみなさん。子どもの本もこんなに色々なテーマを考えていることを知ってください。できればぜひ手にとって読んでみてください。大人にも役立つ本がたくさん見つかると思いますよ。
そしてそこから出発して、大人の本、小説から専門書や研究書まで、店の中をゆっくりと探索してください。本屋こそ、テーマパークなのですから! あ、大人は、夏休みじゃないですけどね。(ひこ)
2010年8月10日(火)、NHK総合にて放送される「ホロコーストを生きのびて~シンドラーとユダヤ人 真実の物語」に、小社刊『救出への道―シンドラーのリスト・真実の歴史』の著者、ミーテク・ペンパー氏が登場します。
ぜひご覧ください!
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「ホロコーストを生きのびて~シンドラーとユダヤ人 真実の物語」
8月10日(火) 午後10:00~10:50 NHK総合
8月13日(金) 午前1:05~1:55 NHK総合
「シンドラーのリスト」、「ユダヤ人を救った男」として知られる実業家、オスカー・シンドラー。そのシンドラーが残したトランクが発見された。中には、戦後、彼が救ったユダヤ人たちと交わした手紙や写真が詰まっていた。
戦後、シンドラーが救ったユダヤ人(シンドラー・ユーデント)からは多数の手紙が届く。「あなたの事を忘れません」、「人間の善意をあなたは示してくれました。それは私の生きる指針になっています」……。
▼詳しくはこちら
http://www.nhk.or.jp/war-peace/summer/onair03.html#038
インターネット通販サイト「7ネットショッピング」にて、歴史書懇話会の協賛で《戦後65年、近現代戦争史》が始まりました。
近代の世界では国家や地域、民族間の戦争が巨大な規模で繰り返されてきました。戦争のなかで多くの人々が命を失い傷ついた歴史を、また社会や文化が破壊された事実を私たちは忘れてはならないでしょう。
今回は戦後65年の夏にあたり、小社や歴史書懇話会員社などの近現代の戦争をテーマとした関連書を集めました。ぜひご一覧のうえご注文ください。フェアの詳細は下記です。
http://www.7netshopping.jp/books/fair/fair_corner/-/fair_cd/sensou_2010
*7ネットショッピングはセブン&アイグループの通販サイトで書籍販売にも早くから取り組んでいます。注文した本をご近所のセブンイレブンで、ご都合に合わせて受け取ることが出来ます。ぜひこの機会にご利用ください。
▼歴史書懇話会とは?
http://www.hozokan.co.jp/cgi-bin/rekikon_blog/sfs6_diary/index.html
ジュンク堂書店池袋本店7階にて、湯浅誠さん(自立生活サポートセンター・もやい事務局長、半貧困ネットワーク事務局長、内閣府参与)が自ら選書した書籍をまとめて展示する「湯浅誠書店」が開催中。8月から、京都BAL店でも並行して開催されるそうです。
小社の刊行書籍では、ナオミ・クライン『ブランドなんか、いらない』、杉田俊介『無能力批評』、堤未果『アメリカは変われるか?』、鎌田慧『いま、連帯をもとめて』および『いま、逆攻のとき』、本田由紀編『若者の労働と生活世界』、藤本典裕・制度研編『学校から見える子どもの貧困』などを選書いただきました。ありがとうございます!
「湯浅誠書店」の公式サイトはこちら
湯浅さんのタフな活動と揺るがない信念を形づくった教養の深みを垣間見ることができると思います。池袋本店での会期は2011年1月までとのことですので、ぜひ足を運んでみてください。
11社共同企画「四六判宣言―文庫では読めない本たち―」は、おかげさまで多くの読者・書店様からフェアのコンセプトへのご支持をいただき、今年で11回目の開催を迎えました。
今年のテーマは「ココロとアタマの処方箋」。忙しい日常から抜け出し、つかのま書店へ。フロアを巡るうちにふと気になる本に出会い、手にとる。頁をめくると、そこには日常から飛翔させることばの数々。それは、私たちをゆっくりと癒し、新たな活力をもたらしてくれます。
出品書目は、各社選りすぐりのいろんな味の全55点。なおかつ、売り捨ての「文庫」にはしたくない、11社がそれぞれとても大切にしている本たちです。ジャンルもエッセイ、文学から歴史、宗教、哲学思想、心理、社会、芸術、自然科学書まで、〈知〉の全領域にわたります。
小社からは、蟻塚亮二『うつ病を体験した精神科医の処方せん』『統合失調症とのつきあい方』、宮地尚子『傷を愛せるか』、アモス・オズ(村田靖子訳)『わたしたちが正しい場所に花は咲かない』、ナオミ・クライン(松島聖子訳)『新版 ブランドなんか、いらない』の5点を出品。
大量の新刊が洪水のように送り出され、平台からところてん式に押し出されていく今日。「本の持つ豊かな世界」を、じっくりと味わってみせんか。
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【11社共同企画「四六判宣言―文庫では読めない本たち―」】
第11弾《ココロとアタマの処方箋》
■期間 2010年7月初旬~1ヶ月程度
■場所 全国各地の書店約110店舗 一覧はこちら(順不同)
■参加 大月書店、紀伊国屋書店、春秋社、晶文社、人文書院、青土社、創元社、白水社、平凡社、みすず書房、吉川弘文館
10代からおとなまで、読む楽しみを味わえる伝記シリーズ「オックスフォード 科学の肖像」(編集代表 オーウェン・ギンガリッチ)。科学者たちの画期的な業績、その思考の過程、魅力あふれる人物像とその生涯をコンパクトにまとめた明快な入門書です。
「このシリーズはトップレベルの科学者やサイエンスライターによって書かれた、若い読者から 一般向けの科学的な伝記である。その人物の人となりと同時に、発見に導いた思考のプロセス をよく調査・吟味したものとなっている。随所に図版が盛り込まれたこの伝記シリーズには、入門書として最適な専門的知識と、その業績によって私たちの自然 世界への理解を形づくった科学者たちの魅力的で説得力のある人物伝の両方が盛り込まれている」 オーウェン・ギンガリッチ(編集代表)
2011年6月、全21冊完結!
『ダーウィン 世界を揺るがした進化の革命』
『アインシュタイン 時間と空間の新しい扉へ』
『ガリレオ・ガリレイ 宗教と科学のはざまで』
『エンリコ・フェルミ 原子のエネルギーを解き放つ』
『マリー・キュリー 新しい自然の力の発見』
『マイケル・ファラデー 科学をすべての人に』
『フロイト 無意識の世界への探検』
『メンデル 遺伝の秘密を探して』
『パヴロフ 脳と行動を解き明かす鍵』
『ウィリアム・ハーヴィ 血液はからだを循環する』
『コペルニクス 地球を動かし天空の美しい秩序へ』
『マーガレット・ミード はるかな異文化への航海』
『エジソン 電気の時代の幕を開ける』
『チャールズ・バベッジ コンピュータ時代の開拓者』
『アーネスト・ラザフォード 原子の宇宙の核心へ』
『ニュートン あらゆる物体を平等にした革命』
『ヨハネス・ケプラー 天文学の新たなる地平へ』
『ルイ・パスツール 無限に小さい生命の秘境へ』
『ライナス・ポーリング 科学への情熱と平和への信念』
『グラハム・ベル 声をつなぐ世界を結ぶ』
『クリックとワトソン 生命の宇宙への船出』(最終回配本)
おかげさまでご好評をいただいております『マルクス自身の手による資本論入門』。読者の方からのご要望にお応えし、第4刷から巻末に「『資本論』からの引用箇所の対応ページ一覧」をつけました。
以下からもダウンロードができますので、ぜひご利用ください。(PDFファイルです)
『資本論』からの引用箇所の対応ページ一覧
現在、紀伊國屋書店新宿南店にて、「アジアと生きる、アジアで生きる」と題したブックフェアを開催中です(7月6日まで)。小社も各国の歴史をQ&A形式で学ぶ「これならわかる」シリーズをはじめ、『中国はいま何を考えているのか』『フィリピンの少女ピア 性虐待を乗りこえた軌跡』など、計35点を出品しています。
3,000冊超の品ぞろえを誇る今回のフェアは、アジアについて深く知るまたとない機会です。アジアの混沌を、情熱を、圧倒的なパワーを、ぜひ店頭で実感ください。
紀伊國屋書店新宿南店アジアフェア
「アジアと生きる、アジアで生きる」
期間:2010年6月10日~7月6日
会場:紀伊國屋書店新宿南店3F イベントスペース
http://www.kinokuniya.co.jp/bookfair/asia2010.htm
『平和と和解の思想をたずねて』の刊行を記念し、本書の執筆者を中心に各分野の専門家の方々に選書いただいた「〈平和と和解〉を考える」フェアの選書リストを作成しました。一冊ごとに選者の推薦コメントがついています。「和解」という困難な問いと向きあうための、分野横断的な思考の一助となれば光栄です。
※いずれもPDFファイルです
フェアにご協力いただける書店様は営業部(担当・駒谷)までご連絡ください。フェア用POP等もご用意いたします。
『傷を愛せるか』の著者、宮地尚子先生の選書を中心にしたフェアが開催中です!
☆★☆ 共感の声広がる『傷を愛せるか』の底流に広がる知の世界にふれる ☆★☆
「傷に寄り添う、明日への希望を紡ぎだす」フェア
~『傷を愛せるか』と宮地尚子セレクション50
■期間 5月24日~7月4日
■場所 紀伊國屋書店新宿本店5F 心理学書売場
http://bookweb.kinokuniya.jp/bookfair/kizuwoaiseruka.html
とかく医学的治癒が優先されがちな「トラウマ」について、文化精神医学・医療人類学あるいはジェンダーやセクシュアリティといった多彩な視点からの考察を続けてきた宮地尚子先生。
その思考と実践は当事者・被害者/加害者だけでなく研究者までをも照射して、さまざまな声や語りを掬い上げてきました。
当フェアでは、宮地先生の最新エッセイ『傷を愛せるか』をきっかけに、本の
世界を更に広げていただけるよう、宮地先生に関連書50冊を選書していただき
ました。
心の傷について、新たな視点を投げかけるラインナップです。
◆宮地尚子[著] ☆好評3刷!☆
『傷を愛せるか』 2,100円(税込)
http://www.otsukishoten.co.jp/book/b55133.html
アモス・オズ著(村田靖子訳)『わたしたちが正しい場所に花は咲かない』が、5月23日付『毎日新聞』「今週の本棚」と、5月29日付『産経新聞』「書評倶楽部」で、相次いで紹介されました。
「国や民族や宗教の関係について述べられているようでいて、日常的な人間関係にも敷衍(ふえん)できる内容だ」(産経新聞・松永美穂氏)「遠い中東の紛争が、人間の行動原理に通じる根源的な問題として、身近に引き寄せられる」(毎日新聞)
異なる考え・信条・宗教をもつ人々を排除せず、互いに理解しあうための、想像力とユーモアによる「共生の作法」。みなさんもぜひご一読ください。
5月23日付『毎日新聞』「今週の本棚」http://mainichi.jp/enta/book/hondana/archive/news/2010/05/20100523ddm015070020000c.html
5月29日付『産経新聞』「書評倶楽部」http://sankei.jp.msn.com/culture/books/100529/bks1005290823004-n1.htm
『読売新聞』5月9日朝刊、『朝日新聞』5月16日朝刊「ルポにっぽん」で、相次いで「買物難民」の問題がとりあげられました。
今月14日に経済産業省の研究会がこの問題に関する報告書をまとめ、今後対策に乗り出すようです。
朝日新聞の記事では、著書『買物難民 もうひとつの高齢者問題』(大月書店)でいち早く問題を指摘した杉田聡氏のコメントが紹介されています。
「だれもが老いる。『近所の小売店はライフライン』という認識が必要で、自助や民間参入が難しい地域では、行政が真剣に向きあってほしい」
2月7日付「朝日新聞」読書欄に、『若者と社会変容』の書評が掲載されました。
《個人化した危機が不平等を隠す》
本書は80年代以降の先進国における若者たちの変化を、教育、労働市場、家族形成、余暇、健康、犯罪等の諸側面にわたって実証した好著である。(中略)読後に見えてくるのは、若者たちがもがき生きる後期近代に備わった、不平等を覆い隠すメカニズムにほかならない。
―評・耳塚寛明(お茶の水女子大副学長・教育社会学)
あわせてPOPもつくりましたので、以下からダウンロードしてご利用ください。
12月新刊『伊勢崎賢治の平和構築ゼミ』について、編者の伊勢崎賢治さんからおすすめのメッセージをいただきました。伊勢崎さんの華麗なトランペット演奏も必見です。
大江満雄とハンセン病者
木村哲也
*本稿は、小社刊『癩者の憲章――大江満雄ハンセン病論集』の編者・木村哲也氏による、ハンセン病市民学会図書資料部会第3回セミナー「ハンセン病参加の諸相」での講演(2009年3月21日、京都市京大会館)「大江満雄と私」を改題し、まとめたものです。
みなさん、こんにちは。東京から参りました木村哲也です。いまご紹介にあったとおり、2008年の秋に大月書店から『癩者の憲章――大江満雄ハンセン病論集』という本を出しました(編集・解説)。今日は大江満雄さんについて話してほしいということで、まずはこの本をつくることになった動機というか、きっかけをお話ししたいと思います。
大江満雄との出会い
大江さんは1906年に高知県に生まれて、1991年に85歳で亡くなられました。ぼくが大江さんにお目にかかったのはじつは2回だけで、それも大江さんの最晩年です。たぶん大江さんとかかわりをもった最後の世代ではないかと思います。
初めてお会いしたのはぼくが中学3年生のとき、東京宿毛会という東京近郊に住む高知県宿毛出身者の集まりがあるのですが、その席上でした。当時大江さんは茨城県に住んでいらしたのですが、その会にはわりと欠かさず顔を出しておられたようです。東京宿毛会はいわば社交パーティみたいなもので、参加者はみんな正装をした、それも功成り名を遂げたどこかの社長さんとか、そういう人たちです。ところがそこにひとり、つなぎのジーンズを着て異様な風体のおじいちゃんがいた。それが大江さんだったんです。
大江さんをご存知の方がひょっとしたらこのなかにもいらっしゃるかもしれませんが、大江さんは非常に静かな、言葉を選び抜いた寡黙な詩を書く人です。でもじっさいの大江さんは、いったん気を許して話し出したらとまらない。ずーっとしゃべりつづける。そういう方でした。
ぼくの両親は宿毛高校の同窓生なのですが、大江さんはその宿毛高校の校歌の作詞者でもあるんです。それで、その場にいたぼくの知人から「この人は君のおとうちゃんとおかあちゃんが卒業した宿毛高校の校歌の作詞をした大江満雄さんという詩人だよ」と紹介されて、大江さんのとなりでお話しさせてもらいました。そしたら大江さんは、初対面の中学生にむかって、とにかくしゃべってしゃべってしゃべりたおして。強烈な印象を受けました。
そのとき大江さんは「あいさつがわりに、これをもっていってください」といって、『白い椅子』という雑誌をくれたんです。ほとんど知られていない雑誌だと思いますが、「老人の性」という特集が組まれて、大江さんの「結婚とは何か――友愛と性愛について ある国立ハンセン病療養所で会った女性の疑問」という文章が載っていました。当時中学生だったぼくが、それを読んで十分に理解できたとは思えないのですが、いま読み返してみると、断種をしないと結婚をゆるされないハンセン病療養所のあり方について、ある女性から疑問をぶつけられる。それをめぐって、大江さんと女性が対話をする。そういう短いエッセイです。タイトルに「友愛と性愛について」とあるように、「ハンセン病療養所で性愛を超えた友愛は可能か」といういまでもなかなかないテーマをめぐって書かれています。
大江さんはとにかく初対面の相手でも、その相手が中学生だろうと、話のレベルを下げるとか言葉を選ぶとか、そういう容赦のない方だったんですね。友愛と性愛がテーマのヘビーなエッセイが載った雑誌を、中学生にむかって平気で「これ読め」といって渡すような人。ぼくはその翌年、高校に入ってからも東京宿毛会の会場で大江さんにお目にかかりましたが、大江さんとかかわりをもったのはそれが最後になりました。ですから、今日のタイトルに「大江満雄と私」とありますけれども、ぼくは必ずしも大江さんと親しくお付き合いさせていただいたわけではないんです。でも、ぼくはとにかくその大江さんの人柄にびっくりし、打たれました。
『大江満雄集』の編集委員に
1991年、大江さんが亡くなります。大江さんが亡くなったことは全国紙でも報道されました。なかには大江さんの写真入りで報じた新聞もあったと思います。ぼくは先にお話ししたとおり、大江さんに生前2度お会いしただけでしたが、初めて会ったときの印象があまりにも強烈だったものですから、その新聞記事を読んで、ほんとうにもう思いつきで東京でおこなわれた告別式に出かけていったんです。
そのとき弔辞を読んだ方が何人かいますが、そのうちのひとりが栗生楽泉園(群馬県吾妻郡草津町)の当時の自治会長、田中梅吉さんでした。田中さんは、ハンセン病の療養所にいる私たちとこれだけ長くお付き合いをしてくれた外部の人はいないんじゃないか、そういう内容の弔辞を読まれました。それから、哲学者の鶴見俊輔さんもお別れの言葉を述べられていた。
ちょうどその時期、鶴見さんの著作集が筑摩書房から刊行されていて、ぼくは大学生になっていましたが、新しい巻が出るたびに買って読んでいました。その著作集の索引を見るとわかるんですが、鶴見さんは大江さんに3回言及しています。それも、すべてハンセン病との関係で書いている。そのことを思い返して、あっと思ったんです。いま、あらためて大江さんの書いたものを読みたいと。中学生のときにはよくわからなかったけれども、大江さんについて知りたい、と思ったのがそのときでした。
大江さんには4冊の詩集がありますが、いずれも絶版です。ほかのいくつかの評論集や児童文学作品もすべて品切・絶版で、その当時は入手することができませんでした。それでこれはなんとかしたいと思って、大江さんの著作集がつくれないかと考えたんです。ぼくは、ほんとうに向こう見ずなことですけれども、鶴見さんにお便りを差し上げました。そうしたら、これが鶴見さんのすごいところだと思いますが、それはたいへん大事なことだから思想の科学でよければ協力しましょう、と即座にお返事をくださった。
ぼくは鶴見さんから、「木村さん、こういう本を知っていますか?」といって、『風嘯』という神奈川県の川崎市で発行されている同人誌をいただきました。これは一般の図書館や書店ではお目にかかれないものですけれども、そこには渋谷直人さんという方が5年間かけて連載していた大江満雄論が載っていた。ぼくは鶴見さんがこういうところにまで目配りしていることに驚きましたが、鶴見さんは「これはいままでに出た大江満雄論のなかでいちばんいいものだから読むように」と。それから、「今度の著作集を編集するにあたっては、ぜひこの渋谷さんを編集委員に加えたい」ということをおっしゃったんです。
そうして、編集委員として鶴見さんと渋谷さん、それから大江さんのお弟子さん筋にあたる詩人の森田進さん、そして当時大学生だったぼくが参加し、監修は伊藤信吉さん(詩人)と小田切秀雄さん(文芸評論家)にお願いして、大江さんの著作集を編集するという作業がはじまりました。思想の科学社から『大江満雄集』が出たのは、大江さんが亡くなってから5年後の1996年です。
ハンセン病への関心
著作集を編集する際、作品のセレクトなどはほかの編集委員の方がなさって、ぼくはいろんなところへ行って作品のコピーを取ってくるという仕事をしていました。そのなかでひとつ気になっていたのが、大江さんとハンセン病とのかかわりでした。
最初に大江さんとぼくが同郷だということをお話ししましたが、ハンセン病を発症して療養所に送られて離ればなれになった家族がいる、という話は身近に聞いて育ちました。また、振り返れば、大江さんと初めて出会ったとき手渡された雑誌の文章もハンセン病をめぐるものでした。
それでぼくは、やっぱりここにはなにか大事な問題があるんじゃないかと思ったんです。とにかく大江さんの書かれたものはいままで表に出ていないわけですから、ハンセン病と大江さんとのかかわりについて知りたいという気持ちになった。そこで、著作集の出た1996年ごろから、大江さんとかかわりのあった人たちを全国のハンセン病療養所に訪ねてお話を聞くかたわら、著作集に収録しきれなかった大江さんの文章を新たに見つけていくという作業をはじめました。
折しも1996年はらい予防法が廃止された年でした。その年や、国賠訴訟の熊本地裁判決がおりた2001年には、ハンセン病の問題がニュースなどで大きく取り扱われたわけですが、マスコミはある一面だけをとらえて報道する傾向があります。そのため、長いあいだ隔離を推進してきた厚生省の罪と、その場で隔離されて人権をうばわれてきた患者たち、といった単純化された報道がずっと繰り返されました。
それでぼくは思い出したのですが、熊本地裁判決がおりたとき、ぼくの大学の恩師で日本近現代史が専門の先生が、「私は日本近現代史の研究者でありながら、これまでハンセン病の歴史についてまったく知らなかった」といって、つぎのような疑問を述べられたのです。
報道によれば、ハンセン病の人たちは子どものころに病気が判明し、家族と引き離されて療養所に連れてこられ、何十年にもおよぶ長いあいだ隔離体制の下で暮らした。だから、そこで人権をうばわれ、教育の機会もうばわれ、たいへん悲惨な生活を送ってきたということはわかる。けれども、ニュースで見た原告団の人たちの話を聞いていると、非常に理路整然と、自分たちが受けてきた被害について、国の政策のあやまちについて説明している。これはよく考えたら、それほど当たり前のことではないと思う。つまり、子どものときから教育の機会をうばわれて、長いあいだ不幸な目にあった人たちが、ああいうふうにテレビの前でおじけずに話ができるというのは、やっぱりどこかで訓練を経てこなければできないことではないか、と。
ぼくは、大江さんがどういう人だったのか、2回会っただけで亡くなったあの大江さんがハンセン病の人たちとどんな交流を積み重ねてきたのか、とにかくそのことを知りたい一心で療養所に通いはじめたのですが、先生のその素朴な疑問を聞いて、やっぱり自分はそれにたいするアンサーをつくらなければいけないと思ったんです。そういうわけで、最初から本にしたいと考えていたわけではありませんでしたが、『癩者の憲章』を編集して世に出すことになりました。
『いのちの芽』の刊行
そもそも大江さんとハンセン病との出会いは1950年ごろ、あるいはもうちょっと前の1940年代後半だと思います。戦後まもない時期、大江さんは腎臓の病気を患って東大病院に入院していました。そこで厚生省に勤めていた大江さんの後輩、詩人でもある原田正二さんという人から、いま全国の国立療養所(当時はハンセン病だけでなく、精神病や結核の療養所もありました)にいる患者さんたちの文芸作品をあつめて、『療養文芸』という雑誌の刊行を計画している、ということを聞きます。大江さんはそこで患者さんたちの詩を見せられて、非常に感激したそうです。それがハンセン病とかかわる最初です。
大江さんは『療養文芸』の編集に協力したり助言をしたりしたそうですが、しかし当時はまだ占領下でしたから、こういう雑誌が患者の権利運動に火をつけることになってはいけないということでGHQの反対があったといいます。ぼくはきちんと裏づけを取ったわけではないので実際のところはよくわかりませんが、大江さんによればそういう理由で『療養文芸』を出すという計画は頓挫してしまう。で、大江さんはその中止になった雑誌のために集められた作品を引き取って、『いのちの芽』(三一書房、1953年)というアンソロジーを出すんです。
大江さんはそれから、つまり『いのちの芽』を出した1950年代から亡くなる直前まで、ほぼ40年にわたってハンセン病の人たちとつかず離れず付き合うことになります。これは園外の人としてはやっぱり長いだろうと思います。もちろん鶴見俊輔さんは現在もお付き合いされているので、大江さんより長いということになるのかもしれませんが、大江さんも『いのちの芽』を出してそれでおしまいというのではなく、それをきっかけにして亡くなるまでずっとハンセン病の人たちとかかわりをもった。そして大江さんの告別式のときにはハンセン病療養所の人が弔辞を読むという、そういう関係を築きました。
ライはアジア、ライ者は来者
大江さんが書いた文章のなかから、いまぼくたちが受け取ることのできるいくつかの話題があると思うのですが、まず1点目は「ライはアジア」ということです。これは鶴見さんがよく引用される言葉ですが、ハンセン病はアジアに多い病気だから、その病気をとおしてアジアの人たちはお互いに交流することができるという呼びかけです。
これを打ち出したのはたぶん大江さんが最初で、いろんなところで人に言い聞かせました。大江さんの文章を読んでも、もう最初期から晩年まで切れ目なくそのフレーズはつづいていきます。いまFIWC(フレンズ国際ワークキャンプ、ハンセン病回復者の支援をおこなう学生団体)の人たちが韓国や中国に出向いて、ハンセン病回復者の人たちと交流をつづけていますが、そういうきっかけのひとつは大江さんがつくったといえるのではないかと思います。
それから2点目は、「ライ者は来者」。これは大江さん独特の表現ですけれども、ハンセン病者は来るべき者なのだ、ということをいっています。『論語』に「往者は諫むべからず、来者は追うべし」という言葉があるそうで、これは、過ぎ去ったことを咎めていてもしょうがない、これから起こることを追いかけていこうじゃないか、という意味なのですが、大江さんはその言葉を自分流に読み替えた。つまり、ハンセン病の人たちは苦悩の過去から来るべき人であり、未来へむかってたえずその存在を語りかける、そういう存在なんだと。そういうことを繰り返し書いています。
星塚敬愛園(鹿児島県鹿屋市)にいた島比呂志さんは『いのちの芽』にも参加された詩人のひとりで、晩年は小説や評論をずいぶんと書かれた人ですけれども、その大江さんの言葉を受け止めて、晩年の評論集に『来者のこえ』というタイトルをつけたんです(社会評論社、1988年)。『いのちの芽』の出会いからいうと35年が経過していましたが、そのことから大江さんと島さんがどのような関係を築いていたか、おわかりになると思います。
「ライ文学の新生面」と救ライ政策への批判
3点目として、「ライ文学の新生面」への着目が挙げられます。いわゆるハンセン病文学というと、いまだに戦前の北條民雄や明石海人が言及されますが、「ライ文学の新生面」(1953年)という文章のなかで大江さんはこういうふうにいっています。
北條民雄や明石海人の文学は非常にすぐれたものだが、それはまだハンセン病が不治の病だったころで、主人公が自殺をしてしまったりあきらめたり、絶望に彩られた作品が非常に多い。しかし、戦後の文芸作品を見ると、北條・明石とはまったくちがっている。そこでは外にむかっての対話が中心に据えられ、自分たちで悪制度とたたかい、それを変えていこうという姿勢がはっきりと見られると。
大江さんはそのことに注目して、強調しています。大江さんは療養所の詩の選者を長らく務めた人ですけれども、その選の基準は、いかに外にむかって対話の姿勢を示しているか、という点にあったと思っていいでしょう。
4点目は、いわゆる救ライ政策への批判です。1953年にらい予防法闘争がありましたが、そこで患者さんたちが主張したのは、皇室の慈恵、恩情にあずかることを拒否するということでした。それについて、大江さんははっきりと理解を示しています。
「新しい市民性をもった詩について」(1955年)という文章で、もう隔離の時代ではないでしょう、救ライ思想はもう古いでしょう、ということを書いている。また、そこには隔離政策を推進した医師・光田健輔への批判もあります。大江さんの光田批判は非常に独特で、単純なものではないと思いますけれども、ちょっと時間がないので各自ご覧になってください。
光がひかるような思い出
5点目です。いま救ライ政策への批判を取り上げましたが、大江さんの場合はその批判がたんなる批判で終わらずに具体的な実践に結びついていました。ぼくが訪ねた入所者の方の多くは、そういえば社会の人と一緒に飲食をしたのは大江さんが初めてだったなあ、とおっしゃいました。そのことの意味ですよね。それは本当にうれしいこと、うれしいというか、忘れがたいことだったと思います。
もちろん、慰問と称してやってくる人たちは戦前からいました。しかし、彼らは予防衣を着て消毒をし、土足で患者の部屋にあがりこんで帰っていった。ところが大江さんは、感染力の弱いハンセン病にそのような必要はないといって、断固拒否したそうです。そして患者さんの家にあがりこんで、一緒に飲食をして、寝泊りすることもあった。
それから当時、大勢の患者さんたちと接するときには公会堂が利用されたのですが、外部から来た人が立つ場所は一段高い壇になっていて、そこから話す仕組みになっていました。そこには柵がもうけられて、患者さんと外部の人たちのあいだには厳然とした距離があった。これはのちに患者さんたちの運動によって撤廃されるんですけれども、ある証言によると、大江さんはそんなのおかしいじゃないかといって壇をおり、患者さんと同じ場所へ移動して、車座になって懇談したといいます。
ぼくは、「隔離は必要ない」というようなことを知識として主張する人は当時からいたと思うんです。ただ、そこまで具体的な行動で示した人はいなかった。それは、当時の患者さんたちにとっても非常に大きなインパクトがあることでした。大江さんは、そういうことをした人なんです。
また大江さんは、すでに1950年代から患者さんたちの社会復帰をみすえて、療養所をどのように再編していったらよいか、具体的に提言しています。だから、60年代に入ってFIWCの人たちによる「むすびの家」(奈良市にあるハンセン病回復者のための宿泊所)の建設運動がはじまったときも、大江さんは側面からの援助を惜しみませんでした。「むすびの家」完成を記念するイベントとして、長島愛生園(岡山県瀬戸内市)の盲人の入園者による「青い鳥楽団」の演奏会「『らい』を聴く夕べ」が開催されましたが、そのパンフレットにもとってもいい文章を書いておられます(「来者の声を」1968年)。
ちょっと脱線しますが、「青い鳥楽団」の団長だった近藤宏一さんは、『いのちの芽』に小島浩二という名前で詩を寄せている詩人でもありました。だから大江さんとも親しかったのですが、近藤さんがハンセン病の後遺症で目が見えなくなろうとするとき、麻痺した指先ではなく知覚の衰えない舌先で点字を読むことを教えたのは大江さんでした。大江さんは栗生楽泉園に舌で点字が読む人がいることを知っていたのです。
近藤さんは、ほんとうにそんなことができるのだろうかと思ったそうですが、まだまだ読みたいものもあるし、大江さんがそういうならやってみようということで、点字を取り寄せて舌で読む練習をはじめたといいます。それから、初めて読んだ点字の本は大江さんの詩集『海峡』(昭森社、1954年)だったともおっしゃっていました。
近藤さんについて、ぼくが特に印象深いのは、「大江さんとの出会いは、ぴかっとそこだけ光がひかるような、そういう思い出です」とおっしゃっていたことです。全盲の近藤さんが、そこだけぴかっと光がひかるようなそういう思い出でした、という。近藤さんにとって、大江さんはそういう存在でした。大江さんは文章のほかに、患者さんと飲食をともにするとか、楽泉園で聞いた話を愛生園に伝えるとか、そういった文字に残らない動き方を同時にしてこられた人だと思います。
一つの世界を
さて、以上のことから、ぼくたちが大江さんから受け取れるものを考えたいと思います。
大江さんの詩で「一つの世界を」という作品があります。こんな詩です。
君は ぼくが幻想的だということを
二つの世界の対立の岸べで 勇敢にたたかわないということを
とがめたいだろう。
ぼくは たしかに失ったものが多い
けれども はじろう心 大きく一致をねがう心は失わない。
〔中略〕
ぼくは 烈しい対立の感情や にくしみの情がわいたときほど
しずかに未来を――一つの世界を――信じて たえてゆかなければならなかった。
今日のシンポジウムは一面的な療養所像、つまり「国の圧制」が一方にあり「人権をうばわれたかわいそうな患者」が他方にあるといった単純な二元論をあらためようというのがそもそものアイディアだったと聞いていますが、そのヒントになるようなことがあります。たとえば大江さんは「療養所の詩」というとき、患者の詩だけを見ていたのではありませんでした。「療養所の詩」とは職員の詩もあわせていうべきだとして、園で詩のアンソロジーを編むときに、そこに職員の詩を入れるということを忘れなかった人です。外部の詩人に積極的に跋文などを書かせ、職員の人たちにも患者の詩について書くことを促しました。
さきほど名前を挙げた島比呂志さんは『火山地帯』という同人誌をずっとやっていて、あるときその『火山地帯』に載った文芸作品をピックアップしてアンソロジーを編んだんです。患者の作品もあれば、職員の作品もある。それだけでなく療養所の外の、一般社会の人の作品もある。そしてこの本につけられたタイトルが『一つの世界』でした。これは大江さんの詩からとられたものです。
つまり、なにがいいたいかというと、1996年にらい予防法が廃止されて、2001年に国賠訴訟の熊本地裁判決がおりますけれども、そこにいたるまでは大江さんや鶴見さん、ほかにもさまざまな立場の人たちが支援をしたり、ときにはお互いに批判したり、そういう動きがおそらくあっただろうと思うんです。ひとつ具体的なことでいえば、国賠訴訟の原告団の代表になった人たち、たとえば東日本訴訟団団長の谺雄二さんや事務局長だった国本衛さん、裁判のきっかけをつくった島比呂志さん、みなさん『いのちの芽』に詩を寄せた人たちです。目に見えない、歴史の表舞台に出てこない地道な積み重ねが、そういう原動力になったといえます。
大江さんがハンセン病のひとたちと付き合っていくうえでの信条というか、心の構えということでおもしろいのは、「私は近くして遠く、遠くして近く、その原理で処してきました」と大江さんがいっていることです。だから、たえず密着していたというのでもなく、『いのちの芽』を出してそれっきりおしまいというのでもなく、ついたり離れたりする。それが付き合いを長くつづけるひとつの秘訣、自分の流儀なんだと。これがすべてではありませんが、ひとつの大事な視点だと思います。
知識人の〈らい〉参加
最後に、ひとつ提言をして終わりたいと思います。
今日の集会のタイトルは、直前になって「ハンセン病参加の諸相」に変わりましたが、はじめは「知識人の〈らい〉参加」でした。ぼくはハンセン病市民学会の催しに参加するのは初めてですが、市民による学会ということであれば、大江さんのように徹底的にハンセン病参加をした人を仮に10人くらい挙げて、その人たちがどういった立場で、どういったかかわり方をしたのかということを、市民の手で明らかにしていくことができたらいいんじゃないかと思います。
はじめから気張るとつづかないでしょうが、たとえば、ひとりについてのレポートを20~30枚くらい書いてそれが10人分集まれば200~300枚になりますから、十分に新書サイズのレポート集ができます。
ぼくは研究機関に属しているわけではなく、自分のポケットマネーで療養所通いをはじめたのが1996年、そこから数えたら本が出るまでに12年かかりました。だから、その経験からいっても、やればできるという感じはあります。「知識人の〈らい〉参加」について、市民学会という場をとおしてやる気のある人が1人でも2人でも多く出てこればいいなと思っています。
そういう呼びかけをして、今日は終わります。ありがとうございました。
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木村哲也(きむら てつや)
1971年生まれ。中学3年のとき、東京宿毛会(東京近郊在住の高知県宿毛出身者の集まり)席上で大江満雄と出会う。学生時代、『大江満雄集』編集に加わる。以後、全国のハンセン病療養所を訪ね、大江満雄とハンセン病者による詩運動について取材。「紙碑をたてよう――『大江満雄著作集』刊行の夢」(『土佐すくも人』第11号、1994年)、編集・解説『大江満雄集――詩と評論』(思想の科学社、1996年)、「大江満雄とハンセン病者――交流の軌跡」(『歴史民俗資料学研究』第3号、1998年)、「大江満雄と島比呂志――〈来者〉の声をきく」(『火山地帯』第116号、1998年)、「元『不良少年』による交流への希求――書評・国本衛『生きて、ふたたび』」(『ハンセン病・国家賠償請求訴訟を支援する会会報』第9号、2000年)、「大江満雄と光明園の詩人たち」上・中・下(『楓』第476~478号、2000年~2001年)ほか。
POPをこちらからダウンロードいただけます。(PDFファイル)
教養講座のころ
栗生楽泉園 谺雄二さん、越一人さん、
松丘保養園 福島政美さんに聞く
大江満雄との初対面、そのときの思い出
真冬のさなか、雪は深く、屋根にはつららが下がっていた。聞けば、草津の雪は5月ごろまで残ることもあるのだという。肢体不自由な後遺症を持つ方たちの生活の苦労を思った。
多磨全生園で国本衛さんにお目にかかった、その1ヵ月後の1996年2月、私は群馬県吾妻郡草津町にあるハンセン病療養所・栗生楽泉園を訪ねていた。
国本さんから紹介を受けたのは、『いのちの芽』(三一書房、1953年)にも詩を寄せている詩人、谺雄二さん(1932年生まれ)である。
『いのちの芽』に楽泉園から参加の10名の詩人のうち、草津に在園されているのはすでに谺さん1名を残すのみとなっていた。
谺さんは、栗生楽泉園では大江満雄にもっとも薫陶を受けた入所者といってよく、ハンセン病療養所の詩人としては、キー・パーソンの1人である。
谺さんは、大江満雄と初めて会ったときのことを克明に記憶していた。
1952年10月、楽泉園の開園記念日の式典に、園内誌『高原』の開園20周年記念文芸特集号の詩の選者である大江は来賓として招かれ、初めて楽泉園を訪ねてきた。
谺さんは大江と直接会う以前、多磨にいたころから国本さんらと起こした『灯泥』の活動を通して文通で互いに知るあいだがらであった。
谺さんの顔を見て、開口一番、「残念です」と、大江は言った。
もう少し軽傷なら園に掛け合って、東京の自宅に内弟子として連れて帰りたかったのだと言った。
「ふつう、そんな発想しねえよ」。
終生隔離の施設で生きることが当たり前だと信じ込んでいたその時代、大江の発想に谺さんは驚いた。それが、大江が亡くなるまでつづく谺さんとのつきあいの始まりであった。
谺さんは1932年東京下町の生まれ。話すことばにべらんめえ調が残る。
7歳で発病して1939年多磨全生園へ入所。母親と兄も発症していてともに多磨にいたが、1945年5月母親が、1949年には兄が相次いで亡くなり、1951年多磨から草津に転園してきた。
お互い傷をなめあうような関係でなく、自立した精神をたっとぶような雰囲気が草津にはあった。みんなで山遊びに行くような、垣根がない療養所は楽泉園のみであった。
ところが転園してすぐ、谺さんは結核で血を吐いた。1952年正月、19歳のときであった。
それまで詩も小説も書いていたが、病気のために長いものが書けなくなり、詩を改めて書き出した。しかしここには詩話会がない。
そこで谺さんが呼び掛けて、1952年秋に栗生詩話会を結成した。同年、園内誌『高原』11月号の開園20周年記念文芸特集号の詩の選を、大江満雄に頼んで引き受けてもらった。頼んだのは谺さんであった。多磨のころからの経験が生かされたのである。
谺さんは、私のために、楽泉園で大江満雄を知る入所者の幾人かに声をかけてくださっていて、それに応じてくださったのが越一人さんである。『いのちの芽』には詩を寄せていないが、詩歴は古い。
「いっしょにお茶を飲んだの、先生が初めてだったなあ」。
飲食を共にした外部の人間の最初が大江であったと証言する入園者は多い。越さんもその一人だ。
「予防着ではなく、私服で来たのに驚いた。福祉の係があわてて白衣を持って走ってきた(笑)。それでも先生は着なかった。そのことが印象的」。
手紙をまめに書く人だった。越さんは大江からの手紙の実物を持って来てくださっていた。落ち葉や押し花を便箋に貼り付けた手紙で、これも大江を知る人からはよく話題にのぼるエピソードである。
谺雄二さん
『高原』の詩の選者として
翌1953年2月から1955年12月まで、3年間にわたって大江満雄は『高原』誌上で詩の選評を引き受けた。次に抜粋するように、単なる選評以上の、本気の詩論を展開した。
「詩は反対の立場の人をも納得させることが大切だ。(略)文学というものは敵を(敵とはラテン語では自分のもたないものをもっている者をいう意味があるという)射るのもであり、そして共感にまで高めるものでなくてはならぬ」(「表現の自覚ということ、表現の美にふれながら」1953年2月号)。
「現代詩人は感傷性をきらうが、私は、感傷的にならざるをえない立場にある人に、感傷性をもつなということは、雨の中を傘をささずに歩む人に、雨に濡れるなというにひとしいと思う。(略)感傷性には貴重な宝庫があり、泉があると、いうことを知り、それを発見する努力をしなければならないと思う。感傷は感情の傷みだから、それを自らが、いやし、自らが創造的な力に高めてゆくということが大切だと思う」(「感傷性について」(1953年10月号)。
「草津の詩人らは、まだ書き出して間がないが、自覚的だ。みな表現について新しい考えをもっている。もたざるをえないわけだ。だれでもときに言葉が混乱して構成ができないときがあるが、このときほど大切なものが在る。大切なときである」(「詩の表現性・伝達性」1954年2月号)。
「『エゴを死刑にしてやりたい』これは、なかなかおもしろいが、(略)エゴというものは社会愛人類愛と切り離すことはできないものだと思う。作者の自己にきびしい態度には好感もてるが、エゴを虐殺すると社会愛とか人類愛の精彩がなくなると思う。自我は人間の表現的実際活動によって社会我世界我に成長するといいたい」(「短評」1955年1月号)。
「○○(作品名)もよい。なぜよいかといえば、他者に美を感じているからだ。他者に美を感じるだけが、その人の美だと私は思う」(「短評」1955年8月号)。
「○○(作品名)は『哲学に酔い神学に反吐を嘔き』などと書く、その書き方に安易なヒヤカシ調子のものを感じさせる。果して哲学に酔い神学に反吐はいているのであろうか。哲学と神学に酔って反吐はくということは、どういうことであろう。(略)こういう書き方にだまされないようにするため、私はこの作品を低く扱う。ヒユが拙いのだ。もっと、じしんを反省し己にきびしくすべきだと思う」(「短評」1955年11月号)。
詩人たちの置かれた状況を深く理解しつつ投げかけられた励ましの言葉には、いま私が読んでも奮い立たされるような力がこもっている。自己の弱さに立脚した強さを持たなければ、人間はもろい。そんな洞察も含んでいる。
当時、谺さんは20代前半。療養所の若い詩人たちに、どれほどの励ましを与えたであろうと思いをめぐらしてしまう。
詩の選者はやがて彫刻家でもある詩人、井手則雄に交代。辞めたときはどうしたことかと谺さんなどは思ったが、いろんな人に会わせたかったのだろうと今にして思う。その後、村松武司、森田進と詩の選者はリレーして現在に至っている。栗生の詩話会は、全国の療養所のなかでも、「栗生は違う」と言わせるだけの成長を遂げた。
谺さんは、1962年、初めての詩集『鬼の顔』(昭森社)を刊行。『いのちの芽』から9年が経っていた。
大江は、このとき谺雄二を論じて、『いのちの芽』に収録された「鬼瓦よ」という作品が忘れがたいと書く。
鬼瓦よ 谺雄二
僕は、地べたを這い
赫土の香気をかぐ。
ときどき空を見る。
鬼瓦よ。
地上に僕という小さな呪詛者がいるのだ。
おまえの顔もすごいな。
おまえの顔の後に月がいる。
おまえの上を鳥が飛ぶ。
鬼瓦よ。
おまえをみていると僕は勇気がでる。
呪詛する勇気。
その中に微かな純血性がある。
太陽と
気流の層。
鳥は飛ばなければならぬ。
獣は地を這わなければならぬ。
僕は、歩かねばならぬ。
僕は鬼瓦に危険信号を視た。
「私はその作品を読んだとき、彼に、古い時代のシンボルと新しい時代のシンボルの交錯を感じた」。
鬼瓦と自分の顔が似ていると、ハンセン病の後遺症を嘆いていただけでは、古い時代のシンボルにとらわれて終わる。大江はその後の谺さんの詩作の努力、その深化を見逃さない。病苦や自分をとりまく環境に悩みながらも、そこから抜け出て新たに歩み出そうとする姿勢に、「新時代の歌い手」としての谺雄二の姿勢を読みとり、「谺雄二の詩はすでに鬼のような顔ではない」と評した。
「私は彼が、友の中に、新しい顔を発見して、ということを讃えたい。そういうところに鬼の顔でない彼の詩の顔の美があるとおもうからである」(大江満雄「『鬼の顔』讃美―谺雄二の『詩の顔』のこと」『高原』1963年4月号)。
谺さんはいま、楽泉園の詩話会をやめたが、群馬詩人会に加わっている。
これまでに、『わすれられた命の詩(うた)―ハンセン病を生きて』(ポプラ社、1987年)という自伝と、『ライは長い旅だから』(皓星社、1981年)という詩集を出した。
『ライは長い旅だから』には、全国のハンセン病療養所の写真を撮り続けた写真家・趙根在の作品も収録された。それまで岩波写真文庫などでハンセン病療養所の写真が出ることがあるにはあったが、患者たちはそっぽをむいたり、遠景に退いたりして、人物が主役の写真とはなっていない。趙根在によって初めて、堂々と正面を見据えて写真に写る患者たちが登場した。時代を画する写真群である。
谺雄二『わすれられた命の詩』
谺雄二(詩)・趙根在(写真)『ライは長い旅だから』
1970年代、谺さんは東京都豊島区東長崎の大江の自宅を訪ねたことがある。
大江はよろこび、玉露のお茶をいれてくれた。一方的にしゃべりつづけた。急須を手に持ったまま、しゃべりつづけるので、湯を吸って茶が出なかったりした。そのくらいしゃべった。
大江をよく知る人から必ず話題にのぼるのが大江の饒舌についてである。愛生園では尿ビンを用意していたと谺さんは聞いている。トイレに行く暇ももったいないといってしゃべりつづけたそうだ。
谺さんのところには切手を送ってきて、これで返事書きなさいと。手紙を出さないでいると、切手をなくしたのかといって、またよこす。そういう人であった。
教養講座をつくる
大江が楽泉園に残した足跡は、詩の活動にとどまらなかった。
1953年から58年まで、5年にわたって84回つづけられた教養講座がそれである。
療養所内の入園者たちが、自分たちの興味あるテーマの講師を招いて開いた自主講座である。
教養講座の事務局は、福島政美さん(1932年生まれ)が担当した。
福島さんは、福寿美津男名義で『いのちの芽』に参加されており、詩作をとおして、また教養講座の活動をとおして、大江満雄とのかかわりは深かった。
福島さんは青森県のハンセン病療養所、松丘保養園に転園されていた。谺さんからご紹介を受け、栗生楽泉園を訪ねたおり、そのまま青森まで足を延ばしてお目にかかることができた。
青森は膝まで雪が積もる季節であった。福島さんの部屋でリンゴをごちそうになりながらお話を聞いた。もぎたてのリンゴがこんなにも美味なものだと初めて知った。
1953年、『いのちの芽』が出て、大江が草津へ訪ねてきたとき。
福島さんは、鳥が丘(園内の地名)のこまどりという建物に、福島さんとお姉さんと、カリエスで寝たきりで闘病中であった。
大江は見舞いに訪ねてきて、昼ご飯をご馳走してくれた。食べ物に不自由しているころで、ありがたかった。おやつに鬼かりんとうやパイナップルの缶詰をほおばって話したのが思い出に残っている。
病気が治りきらないのは厚生省が予算を出し惜しむからで、国が病気に必要なだけ使えば治る、国の責任だと、そのころから言っていた。
その後も大江は、たびたび草津を訪ねてきた。
詩作や文芸も大切だが、教養を深める必要がある。当時、「療養人」(「社会人」の対語)という言葉があったが、「療養人」というカテゴリーでモノを考えるな、と強調していた。「コスモ(宇宙的)」な考え方で、「アジア」という視野で、今日的教養を身につけ、未来を見据えろ、ということを大江は熱弁した。
そんな考え方がベースになって、教養講座を始めよう、ということになった。
当時、療養所に娯楽は何もなく、週に1回映画が来た。あとは年に1回、演劇、音楽の発表会をやる程度であった。
園と掛け合って、戦前1932年当時につくられた栗生会館が空き室になっていたのを、講座の教室にした。
事務局が必要となり、本間きよしさん(『いのちの芽』にも参加)がスタッフとして助けてくれて、福島さんとコンビを組んだ。規約づくりなどにどれほど時間がかかったか。
時代の変化とともに
戦時中は不治の病であったハンセン病も、戦後は特効薬プロミンの恩恵で、症状が回復することがわかってきた。
1949~50年ごろ、全国の療養所でプロミン獲得闘争が行われた。若い人たちは社会復帰を目指すようになる。
1953年はらい予防法闘争。現状を変えるには、厚生省との折衝など、さまざまな知識と交渉の力量が必要であった。
岡山県の長島愛生園には定時制の高校が設立されて、全国から生徒が集まるようになる。
青年たちはプロミンの恩恵を受けて、社会復帰していった。
自分たちの関心が内から外へ向かう時期であった。
当時、労務外出が日増しに多くなる。現金収入を求めて、草津温泉の観光化にあわせて、観光道路をつくる肉体労働に出ていく入園者が増えていった。
1950年代半ばを過ぎたころには、テレビも手に入るようになっていった。
絶対隔離といわれた療養所にも、時代の空気は確実に流れ込んできていた。
やがて入園者のニーズが多様化して、講座の継続がむつかしくなっていった。
しかし、教養講座が患者の自主的な活動として5年間も継続したことは、驚くべきことといっていい。
教養講座の記録を見ると、大江をはじめ、鶴見俊輔(哲学)、山室静(詩人)、佐藤忠男(映画)、大西巨人(文学)、山本健吉(文学)といった講師の名が見える。
テーマも、社会科学、自然科学、哲学、宗教、文学、スポーツと多岐にわたり、また座学にとどまらず、理髪技術講習や、花卉(かき)栽培といった、実学、技術の習得までもが目指されていたことがうかがえる(【資料】講座一覧:1、2)。
隔離の内に閉ざされていた入園者たちが、社会復帰するにあたって、意味ある場になったはずである。
たとえば、栗生楽泉園の入園者であった横山石鳥さん。短歌を主としたが、詩も書いた。教養講座にも積極的に参加し、1966年に社会復帰したのちも草津町の教育委員などを務めた。草津での経験が、退園されてからも鮮やかに生かされた証左である。
多磨全生園には夏季大学というのがあって、新人の医師などにハンセン病について知ってもらう活動をして、現在もつづいている。
しかし教養目的のセミナーは、草津が最初で最後であった。
福島さんは、1932年、福島県で生まれる。
1946年、入園。自由地区にいた。雑居生活ではなかった。
予防法闘争のころは草津―多磨―厚生省とよく動いた。
1959年、青森の松丘保養園へ転園。15畳に4人での生活であった。草津の生活から見てずいぶんとカルチャーショックを受けた。これではいけないと、さまざまな活動を開始する。
青森でも「刻(こく)」という詩のサークルを主宰した。
藤田三蔵さん、天地聖一さん、関弘さん、堀由紀子さん、村木重信さんといったメンバーが参加した。青森市や弘前市の詩のグループとも交流した。
ガリ版で詩集を出した。『とつぱれ』(津軽弁で「おしまい」の意)という詩集を出して活動を終えた。
1963年ごろ、自治会の文化部長をつとめたとき、園創立50周年記念の文芸募集の詩の選を大江満雄にお願いしたことがある。
松丘保養園と大江との関わりは後にも先にもそれくらいだが、福島さん抜きには実現しなかったであろう。
予算の交渉など、教養講座で培ったことが生きたと思っている。
1975年、入園者のあいだで、自室に電話がほしいという声が挙がった。
その頃すでに草津には例外的に電話が入っていた。コンスタンチン(コンスタンチン・トロチェフ、次回にこの連載にも登場していただく予定)の家が療養所の外との境界にあって、電話が認可されていた。それが付け目で草津には電話が普及していた。
呼び出しを受けて外にある電話ボックスに電話をとりに行くことは、雪深い青森では無理である。
5~6人、電話がほしいという友人にかつがれて、電話局にお願いに行った。
療養所ということは、入園者は病気で寝ていると思われていた。寝ている人になぜ電話が必要なのかと偏見を持つ人たちに、現場を見てもらい、普通の住宅地と変わらないことを理解してもらった。
はじめ、20回線を敷設し、3回ほどで全世帯に電話を通すことを実現した。
青森でのノウハウが生きて、全国の療養所に電話が普及した。
1977~78年、自治会長に選ばれる。
居住棟の改築を実現した。先輩たちが何年かかってもやれなかったことを、お前がやれるわけないと笑われたが、1978~80年のあいだに全部建て替えを果たした。
現在は文学活動も自治会活動もすっかりやめている。
7~8年前から牧師の資格を得て、信仰に生きている。
前列中央、ベレー帽姿が大江満雄。その左隣が福島政美さん。
(福島政美さん提供)
詩作を超えた活動のひろがり
冒頭の谺さんの話に戻る。
「ライとなんとか」なんてテーマにしばられず、自由に話すのが大江さんのやりたかったことだと、谺さんは強調する。人として生きていくために「あらゆるものを身につけろ」と。
そのための教養講座だった。
大江の発想のもとには、インドの哲学詩人、タゴールの影響があったと谺さんは言う。
タゴールがインドにつくった市民大学の考えだったのではないか?と。
会話の中で、インドのタゴールのことは、しょっちゅう言っていたという。
大江の書き残した文章にもそれは見てとれる。
「戦後、タゴールのサンチニケータンの国際大学へ行った人たちの話を聞いて、日本にも、小さくとも、それに対応するものができるといいがとおもいました。(「その学園には、ヒンズー教、仏教、ジャイナ教、イスラム教、シーク教、キリスト教、その他の宗教、文学、歴史、科学、美術、が、民族、国籍、信条、階級の差別と対立を越えて、広く東洋と西洋の文化交流のセンターとしての性格を目標として運営された」―春日井真也―といわれています。)草津の楽泉園で『アジア大学講座』それは段階的に『教養講座』という形で矢嶋園長と自治会の了解で開講したことがあります」(「『アジア大学』のゆめ」『大倭』第28号、1967年10・11・12月合併号)。
これだけのスケールの大きなおしゃべりを、大江は若きハンセン病療養所の詩人たちにしていたことになる。
「宇宙」というのも大江の好きな言葉だった。
「天文学的宇宙じゃねえよ。人間世界に宇宙を見るってことだな。『この人にはコスモを感じる』とかね」。
大江は1963年、東京から茨城県に移り住んだ。はじめは電話もなかった。晩年、周囲が心配して入れさせたという。
会えばあれほどおしゃべりだった大江も、電話では口数が少なかった。用件のみで切るのが、谺さんにはおかしかった。
晩年、大江の故郷の四万十川に詩碑が建つとき、寄付として色紙を1,000円でいいというのを1枚3,000円で買った。楽泉園でのカンパのとりまとめを谺さんがおこなった。余った色紙が数枚あり、残しておいてもしかたがないからと、私に託された。後日、大江の蔵書が遺族から寄贈された高知県立近代文学館に、この色紙は私から寄贈している。
「宇宙は初めも終りも無いのに わたしは中今に在ると言う」
1991年、大江が亡くなった時、栗生楽泉園から自治会長の田中梅吉さんが出向き、弔辞を読んだ。全国のハンセン病療養所で草津だけが、葬儀に参列した。それだけのつながりが、楽泉園にはあったのである。
『風雪の紋―栗生楽泉園患者50年史』
大江の死後、5年たって、らい予防法は廃止されることになる。
谺さんにお話をうかがった1996年2月は、3月の廃止が目前に迫っていた。
1953年のらい予防法闘争。これは人権闘争で闘ったが、以後、全患協(ハンセン病療養所の患者組織)は園内での待遇改善などの経済闘争の色彩が濃くなる。その弊害が今になって出てきたと谺さんは言う。
今回の廃止は、元厚生官僚の大谷藤郎氏が示したことで、全患協はあわてふためいた。
つまり、各療養所では、全面廃止の声と、改正を危ぶむ声(長島愛生園、駿河療養所、奄美和光園)で統一できず、どうしても人権要求は弱くなったのである。これまでの責任をとらず、国家補償は立法化されず。これはお仕着せの新たな「救済」でしかないと谺さんは見る。
やがて1999年、谺さんはハンセン病国賠訴訟を提訴。東日本原告団の代表になる(事務局長は前回の連載に登場した多磨全生園の国本衛さん)。2001年の全面勝訴を勝ち取った(裁判勝訴までの経緯については谺雄二『知らなかったあなたへ―ハンセン病訴訟までの長い旅』ポプラ社、2001年、がある)。
若き日に大江満雄との出会いから始まった活動は、詩や文学の運動を超えて、社会的な実践にまで広がっていったのである。
谺さんは以上の話を、「酒も飲まずに2時間もしゃべるのは、めずらしい」と言いながら夢中になってつづけ、さらに、ビールと寿司と湯豆腐をごちそうになりながら3時間、聞かせてくださった。
(1996年2月13~14日、栗生楽泉園にて 谺雄二さん、越一人さんより聞き書き)
(1996年2月20日、松丘保養園にて 福島政美さんより聞き書き)
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【関連記事】
大江満雄とハンセン病者
【参考文献】
大江満雄「感想」『高原』1952年11月号(開園20周年記念文芸特集)
大江満雄「表現の自覚ということ、表現の美にふれながら」『高原』1953年2月号(詩の選者になる。1955年12月まで)
大江満雄「感傷性について」『高原』1953年10月号
大江満雄「高原の地方性にふれて 短評」『高原』1953年11月号
大江満雄「詩の表現性・伝達性」『高原』1954年2月号
大江満雄「選後の感想」『高原』1954年6月号(50号記念文芸特集)
大江満雄「短評」『高原』1954年8・9月合併号
大江満雄「短評」『高原』1955年1月号
大江満雄「選後の感想」『高原』1955年2月号(文芸特集)
大江満雄「感想」『高原』1955年3月号
大江満雄「欲望について」『高原』1955年3月号
大江満雄「短評」『高原』1955年4月号
大江満雄「詩 短評」『高原』1955年5月号
大江満雄「短評」『高原』1955年7月号
大江満雄「短評」『高原』1955年8月号
大江満雄「短評」『高原』1955年9月号
大江満雄「感想」『高原』1955年10月号
大江満雄「選評」『高原』1955年11月号(文芸特集)
大江満雄「選後の感想」『高原』1955年12月号
大江満雄「短評」『高原』1958年1月号
大江満雄「序」井手則雄編『草津の柵』昭森社、1959年1月
大江満雄「『鬼の顔』讃美―谺雄二の『詩の顔』のこと」『高原』1963年4月号
大江満雄「アジア大学顛末記―楽泉園の教養講座」『おおやまと新聞』第7号、1965年2月23日
大江満雄「『アジア大学』のゆめ」『大倭』第28号、1967年10・11・12月合併号
大江満雄「お便り」『高原』1977年4月号
大江満雄「越一人の詩の美しさ―詩集『違い鷹羽』を讃えて」『高原』1985年12月号
谺雄二「大江満雄先生のこと」『高原』1953年5月号(木村哲也編『癩者の憲章―大江満雄ハンセン病論集』の「ハンセン病文学関連参考文献リスト」(301ページ)に1955年とあるのは誤り)
福寿美津男「教養講座開設一周年を迎えて―講座をもりあげるために在園者の関心を」『高原』1955年7月号
田中梅吉「大江満雄先生を偲んで」『高原』1991年12月号
宮下忠子『隔離の里―ハンセン病回復者の軌跡』大月書店、1998年(「平和の子―詩人 谺雄二」の章あり)
谺雄二「大江満雄先生のことなど」『ハンセン病文学全集』第7巻月報、2004年
久保田譲『栗生楽泉園の詩人たち―その詩と生活』ノイエス朝日、2007年
谺雄二『詩集 鬼の顔』昭森社、1962年
谺雄二(詩)・趙根在(写真)『ライは長い旅だから』皓星社、1981年
谺雄二『わすれられた命の詩(うた)―ハンセン病を生きて』ポプラ社、1987年
谺雄二『知らなかったあなたへ―ハンセン病訴訟までの長い旅』ポプラ社、2001年
越一人『詩集 違い鷹羽』創樹社、1985年
越一人『詩集 白い休息』土曜美術社出版販売、1994年
栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋―栗生楽泉園患者50年史』栗生楽泉園患者自治会、1982年
【栗生楽泉園】
〒377-1711 群馬県吾妻郡草津町大字草津乙647番地
TEL. 0279-88-3030(代表)
FAX. 0279-88-5473
http://www.hosp.go.jp/~kuryu/
【松丘保養園】
〒038-0003 青森市大字石江字平山19番地
TEL. 017-788-0145
FAX. 017-788-0148
http://www.hosp.go.jp/~matuoka/
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大江満雄(おおえ みつお)
1906年高知県生まれ。15歳のとき水害と貧困苦により一家離散し、父とともに親戚を頼り上京。原宿同胞教会にて受洗。石版工として技術を学ぶかたわら、生田春月主宰『詩と人生』準同人となり詩を書き始める。プロレタリア文学運動が盛んになると、その中心で活躍。そのため治安維持法違反で検挙、獄中転向。以後、戦争詩によって詩壇で名をなす。戦後はヒューマニズムを基調とする抒情的思想詩を多数発表した。詩集に『血の花が開くとき』(1928年)、『日本海流』(1943年)、『海峡』(1954年)、『機械の呼吸』(1955年)、『自選詩集 地球民のうた』(1987年)。この他、ハンセン病者の詩のアンソロジー『いのちの芽』編集・解説。多くの評論、児童文学の作品ものこした。1991年心不全により死去。享年85。没後、『大江満雄集―詩と評論』(思想の科学社、1996年)が刊行された。
木村哲也(きむら てつや)
1971年生まれ。中学3年のとき、東京宿毛会(東京近郊在住の高知県宿毛出身者の集まり)席上で大江満雄と出会う。学生時代、『大江満雄集』編集に加わる。以後、全国のハンセン病療養所を訪ね、大江満雄とハンセン病者による詩運動について取材。「紙碑をたてよう―『大江満雄著作集』刊行の夢」(『土佐すくも人』第11号、1994年)、編集・解説『大江満雄集―詩と評論』(思想の科学社、1996年)、「大江満雄とハンセン病者―交流の軌跡」(『歴史民俗資料学研究』第3号、1998年)、「大江満雄と島比呂志―〈来者〉の声をきく」(『火山地帯』第116号、1998年)、「元『不良少年』による交流への希求―書評・国本衛『生きて、ふたたび』」(『ハンセン病・国家賠償請求訴訟を支援する会会報』第9号、2000年)、「大江満雄と光明園の詩人たち」上・中・下(『楓』第476~478号、2000年~2001年)、編集・解説『癩者の憲章―大江満雄ハンセン病論集』(大月書店、2008年)ほか。




















