【web連載】金城正洋「真南風(ぱいかじ)の島から」第4回

沖縄の夏は勇壮な「エイサー」が彩りを添える

金城正洋(琉球朝日放送報道部記者)


沖縄の夏を彩る「エイサー」。旧暦7月13日から15日までの「お盆」に唄、三線(サンシン)に合わせて若者の太鼓と踊りの演舞が勇壮に繰り広げられます。今年の旧盆は新暦の8月30日から9月1日にあたり、沖縄本島各地では夏になるとエイサーの太鼓や三線(サンシン)の音が響きわたります。



エイサーと青空

大太鼓、締め太鼓、女性の手踊りで構成される青年会の勇壮なエイサー。地域によって太鼓や唄、踊りは様々だ。(2012年8月18日、与那原町(よなばるちょう)・当添(とうそえ)青年会のエイサー)



旧盆に踊られるということは、つまり「念仏踊り」です。「琉球王国」時代、大和から仏教が入ってきたようです。その中で今から400年余り前の1603年、福島いわき出身の学僧「袋中」(たいちゅう)が琉球に渡り「浄土宗」を伝えたとされています。その際、いわきの念仏踊り「じゃんがら踊り」を伝えたのが現在の沖縄の「エイサー」に変化していったという説が有力のようです。もちろん「袋中上人」(たいちゅう しょうにん)は浄土宗の教えを人々に説くことが目的でしたでしょうから、わかりやすく布教するために念仏踊りを取り入れたのかもしれません。時代を経て琉球の「先祖崇拝」の伝統と仏教の教えとが融合していったとすれば、あながち不思議でもないでしょう。


さて、琉球王府があった沖縄本島とは別に、宮古島や石垣島には「エイサー」の伝統はありません。逆に石垣島を中心とする八重山諸島には旧盆に「あんがま」という伝統行事があります。先祖が「あの世」から「現世」に戻ってくると考えられていて、旧盆の3日間は仏壇に御供え物をしてもてなすのです。面をかぶった翁(おきな)と媼(おうな)が子や孫を引き連れて招かれた家々を訪問し、踊りや掛け合いを披露してにぎやかに先祖供養をします。念仏ということからすると「エイサー」も「あんがま」も変わりはありません。


「エイサー」で必ず歌われる唄があります。「あんがま」でも真っ先に唄われます。「ンゾーニンブツィブシ(無蔵念仏節)」という唄です。ここでは石垣島の「あんがま」で唄われる一節を紹介しましょう。


「うやぬよ、うぐぬは、ふかきむぬ、ちちぐぬうぐぬや、やまたかさ、ははぐぬうぐぬは、うみふかさ」


要約すれば「親のご恩は尊いものだ。父親のご恩は山より高く、母親のご恩は海よりも深い」


「エイサー」は進化し続け、今や全国、世界中にエイサーの踊り手がいます。夏の東京では新宿エイサー祭り、大阪でのエイサー祭りが恒例となっています。華やかな集団演舞はさらに広がって行くでしょう。しかし個人的には旧盆の3日間、地域で踊られる青年会による伝統のエイサーに魅力を感じます。

沖縄の夏の楽しみには果物もあります。夏にはパイン、マンゴー、パッションフルーツ、ドラゴンフルーツなどの果物が店頭を彩ります。先日、パッションフルーツ(花が時計の形に似ているから時計草ともいわれる)の果実を買いました。


沖縄本島北部の東村(ひがしそん)の物産センター。パイン、マンゴー、野菜など地域の農山海産物とそれを加工した特産品が並ぶなか、パッションフルーツを見つけたのでした。両こぶしをぎゅっと合わせたような大きさ。こんな大きさのパッションフルーツはめったにお目にかかれない。「うおぉ~」と無邪気に大声を出すところを、「冷静に」というもう一人の自分に諭されて、しばし沈黙。私の前にいたおばちゃんが手にとって品定めをしていたからです。


「おばちゃん、それあんまりよくないよ、買わない方がいいよ」と心のなかの悪魔がつぶやきました。こちらの買いたい一心が通じたのか、おばちゃんは隣のマンゴーを手にとってレジへと向かいました。台の上にはパッションフルーツ3個入りの袋がふたつ。二ヤリとしたのは言うまでもありません。


夜遅く家に帰り、実の下の部分を薄く切る。安定して座るのを確かめて上のへたの部分を横にスパッと切るとパッションフルーツのグラスへ様変わり。中の果肉と種をかき混ぜると黄色い果汁が甘酸っぱい香りを放ち、アイスピックで割った氷をひとかけら落とします。そこに「泡盛」を注ぐ。満天の星降る夜空を眺めつつ、「泡盛のパッションフルーツ割り」を口に運ぶ。トロピカルシャワーとはこのことを言うのだろうと勝手に思いつつ、至福の時に浸りながら生産農家の苦労を思って感謝のグラスを上げました。



パッションフルーツの泡盛グラスと夜の庭

泡盛のパッションフルーツ割り(2012年8月14日 豊見城市(とみぐすくし)・筆者の庭)



イタジイを中心とした木々が生い茂る沖縄本島北部「やんばる」の森(山々)。豊かな自然が織りなすさまはあまりにも美しすぎる。その木々の下には特別天然記念物の「ノグチゲラ」をはじめ「ヤンバルクイナ」「コノハチョウ」「ヤンバルテナガコガネ」「セマルハコガメ」など希少野生動物が生息、亜熱帯の貴重な植物も自生する生物多様性の宝庫なのです。山々は水を豊富に蓄え、沖縄本島や周辺離島の重要な水の供給源となっています。「やんばる」の森が破壊されることは沖縄県民の生活に甚大な被害をおよぼすことを意味します。


1945年、ニッポンに戦争に勝ったアメリカは沖縄を信託統治下に置きました。その後のベトナム戦争では密林での戦いを想定して、沖縄本島北部の「やんばる」の森を占有した広大な北部訓練場で部隊ごとに訓練を実施し、ベトナムへと送り込んだ歴史があります。北部訓練場の面積は東京の文京区と豊島区・新宿区・千代田区・中央区・台東区を合わせたより広く、その北部訓練場に取り囲まれるかたちになっている東村高江(たかえ)地区は小さな集落が道沿いにいくつも点在する地域です。アメリカ軍は当時、北部訓練場内で「ベトナム村」と名付け、高江の集落を目標にした密林での戦闘訓練を行っていたのが明らかになっています。



森の緑と北部訓練場の立ち入り禁止看板「米国海兵隊施設 無断で立入ることはできません。違反者は日本の法律に依って罰せられる。」の文字

豊かなイタジイの森を伐採してオスプレイが使うヘリ着陸帯の工事が進むアメリカ軍北部訓練場の一角(2012年8月7日、東村高江)



さらに最近相次いで、海兵隊の退役軍人が北部訓練場でダイオキシンを含む枯れ葉剤の存在を証言。公開されたアメリカの公文書でもそのことが明るみになりました。枯れ葉剤はベトナム戦争で使用された猛毒の化学兵器。その化学兵器が沖縄で、しかも県民の「水がめ」である北部「やんばる」の森で使用されていたとすれば、かなり深刻な問題に発展するでしょう。


枯れ葉剤の恐怖とともに、あの欠陥機「オスプレイ」が山口県岩国市のアメリカ軍基地にとうとう陸揚げされました。アメリカ軍は沖縄の普天間基地への配備をいつにするのかを虎視眈々と狙っています。沖縄では8月5日に「オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会」を予定していましたが、台風11号の襲来で延期となり、あらためて9月9日(日)午前11時から宜野湾市の宜野湾海浜公園で開催されます。しかしその時には、オスプレイは試験飛行名目で普天間基地に来ているかもしれません。


オスプレイの沖縄配備(アメリカから言われて?)を急ぎたい野田民主党政権は森本防衛大臣をワシントンに派遣。森本大臣はヘッドホンをしながら恐る恐るオスプレイに試乗したあと、官僚が事前に用意したような「安定して快適だった」「騒音は少なかった」などとする趣旨の発言をしました。これが沖縄県民の感情を逆なでしたのです。県見大会の新たな期日を決めた実行委員会の何人かは個人的に「そんなに大丈夫だったら政府専用機にすればいい」、「日本全国をアメリカ軍の訓練場化した政府を、国民は許せるのかな」と語りました。また「彼(森本大臣)はバッジ(選挙で当選した国会議員ではない)を付けていない民間人だからということかもしれないな」と皮肉る実行委員もいました。


「符合」という言葉が浮かびました。オスプレイが山口県岩国の基地に陸揚げされ、沖縄ではオスプレイ配備反対の県民大会が予定されています。森本大臣はワシントンでオスプレイに試乗するパフォーマンスを演じ、その後、日本政府はアメリカに官僚を派遣してモロッコでのオスプレイ墜落事故の調査報告書を取りに行きました。華やかなロンドンオリンピックの陰で韓国の大統領が竹島に上陸。民主党や自民党などの国会議員が尖閣諸島への上陸計画を発表。15日には香港の活動家らが尖閣諸島に上陸して逮捕される事態になりました。


世間は領有権争い一色ですが、なぜこの時期に同時多発的に竹島か、尖閣かです。沖縄県民は極めて冷静に国内、国際情勢を見ています。普通のおじさん、おばさんたちが「すべてがオスプレイ普天間配備ありきのやらせでしょう」と言うのですから。尖閣と竹島の騒動の「裏」にあるもの。沖縄のおじー、おばーたちの見立ては、あながち的外れではないでしょう。



7月末、石巻に行きました。高台から下にあったはずであろう住宅地は、基礎部分を残し、何もありませんでした。うちあげられた漁船もそのまま。波消ブロックも痛々しさが残り、防波堤の内側もえぐられていました。「震災がれき」という言葉を目の当たりにした時に、実感しました。


本音は、伝え聞いているだけでいいと思っていました。自分にできることは募金ぐらいしかないだろうなと。しかし、東北の仲間が言いました。「何もしなくてもいい。現場を見てくれるだけでいい。見た思いを、沖縄に持ち帰って下さい」と。現場に行くことは「物見遊山」的に思われはしないだろうかと、東北に行くまで葛藤がありました。その背中を押したのが東北の仲間でした。


わずかな時間でしたが、荒涼とした街跡を歩きました。皮膚感覚としての喜怒哀楽もありません。人は凍りつくと涙も出ないといいます。私は祖父も、祖父の妹(私の大好きなばあちゃん)も、そして父親とさよならする時にも、涙はありませんでした。悲しさを通り越して感情が凍てついてしまったからでしょう。東北のみなさんの気持ちとは相いれないかもしれませんが、海に向かって手を合わせることしかできませんでした。



道路のわきに積み上がった震災瓦礫の山と電柱と青空

1年半ちかくたっても「震災がれき」の山は、いくつもそのまま(2012年7月30日、宮城県石巻市)



東北の仲間が言った「とにかく現場を見て下さい」。その思いは、現場を見たものとして、沖縄の人々に話すことが役目だろうと思いました。そのなかから一人でも多く東北に行ってほしい。いまはそう思っています。そこから何が出来るのかを現場で考えることでしょう。逆に、沖縄に来て基地問題を見て下さいとも言おう。


海山の豊かな自然、収穫期を迎えた色とりどりの果物、そして先祖供養の旧盆で若者たちがみせる熱気あふれるエイサー。沖縄の夏の暑さはまだまだ続きます。そしてオスプレイ配備に反対する沖縄県民の熱気は「配備断念」させるまで続きます。それと同時に、沖縄から東北への思いはつながって続くのです。どちらも「国策」に抗う気持ちを持ちながら。

 

「真南風(ぱいかじ)の島から」(全12回)
■2012年5月・第1回(歩くことで見えてくる沖縄 戦後67年 復帰40年 5.15平和行進で考える基地・沖縄)はこちらから
■2012年6月・第2回(木陰と風と、祈りと怒りの季節を迎えた沖縄)はこちらから
■2012年7月・第3回(「欠陥機」オスプレイが日本全国を飛び回る アメリカ軍普天間基地への配備強行で沖縄は島ぐるみ闘争へ)はこちらから
■2012年8月・第4回(沖縄の夏は勇壮な「エイサー」が彩りを添える)はこちらから
■2012年9月・第5回(「オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会」に10万人結集)はこちらから
■2012年10月・第6回(歴史の始まり 「非暴力」でアメリカ軍普天間基地を封鎖)はこちらから
■2012年11月・第7回(沖縄八重山諸島の3人の唄者(うたしゃ))はこちらから
■2012年12月・第8回(歴史に学ばないこの国とは?)はこちらから
■2013年1月・第9回(憲法を生かす国民の不断の努力)はこちらから
■2013年2月・第10回(そういえば……)はこちらから
■2013年3月・第11回(うりずん(初夏)の季節を迎えた沖縄)はこちらから
■2013年4月・第12回(サヨナラは笑顔で。)はこちらから

 

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金城正洋(きんじょう まさひろ)

沖縄県石垣市生まれ。沖縄の琉球朝日放送報道部記者。石垣島と八重山諸島の過酷な歴史と人々の交流、受け継がれてきた文化を伝える琉球朝日放送開局15周年記念特番「あんじやだ!〜むかし石垣・八重山〜」(2010年)を手掛ける。2011年には、2006年に結成された琉球朝日放送労働組合の初代執行委員長としてねばり強いたたかいから職場の非正規労働者全員の正社員化を実現し話題になった。ほかに、『週刊金曜日』への寄稿「『歴史改竄』にうずまく沖縄の怒り 9.29に島ぐるみの"反転攻撃"」、「土地収用法で反対派に揺さぶり 『軍用』の懸念残る石垣島空港」、『教育と文化』(48号)にルポ「教科書検定に沖縄県民の怒りが広がる」(いずれも2007年)など。

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