藤井貞和×桑原茂夫「3・11憲法研究会からの発信(2)」

3・11憲法研究会からの発信(2)

藤井貞和×桑原茂夫

 

小社刊『水素よ、炉心露出の詩――三月十一日のために』の著者、藤井貞和氏と桑原茂夫氏がタッグを組んで立ち上げた「3.11憲法研究会」からの発信・第2弾です。①~④はすでに昨年2012年末にアップしましたが、今回は⑤~⑩をまとめました。ご覧ください。


①《3・11》と憲法
②選挙にどう向かうか
③憲法第10章「最高法規」の意義を知る
④福島の現状は憲法違反であるということ
http://www.otsukishoten.co.jp/news/n5447.html


⑤ 最初に、稼働原発ゼロの秋を高く評価

藤井


2013年9月、稼働原発をゼロにしたこと、だれの功績だとか、だれがゼロにしたのかなどは問わない、記憶に値する、日本列島での商業用原子炉基地の稼働ゼロを、歴史的な選択として評価し、称えたいな。

原子力規制委員会が、各電力会社の再稼働申請について、安全基準のバーを引き上げつつ、慎重に審査する方向は、なおその先を見極めることが困難であるとしても、微妙な駆け引きのように見えながら、再稼働を遅らせるように動き、いまのゼロ状態の招来、そして延引をもたらしていることに対し、かれらの科学者としての「良心」が、かれら個々にあるかどうかでなく、近代人、現代人の心底に灯(とも)るかどうか、科学の思想のゆくすえを見守るわれわれとして、目をそらすことができない。

落としどころを那辺に据えているか、という議論を前面に押し立てることは措くことにしよう。再稼働はありえない。核の使用済み燃料が蓄積するばかりの核基地の状況は、再稼働を不可能のものとしている。しかし、企業、資本の論理からは再稼働せざるをえないかのような姿勢をとる電力会社(そして重工業会社など)であるならば、そこを刺激してもしょうがない。再稼働させる方向を規制委員会が示唆しつづけるならば、諸基地の廃炉決定ののちに(そうならざるをえない)、電力会社たちは規制委員会に対し、数兆円におよぶ、損害賠償の訴訟を起こしてよいのではないかと思える。

規制委員会がそれを恐れるならば、一刻も早く、すべての基地の廃炉へむけて、電力会社に勧告をすべきだ。そういう時に来ている。ことを誤り、再稼働へむけての動きに対し、いま一基でも屈してしまうならば、規制委員会死せり、というほかはなくなる。規制委員会法について、さいごに取り上げようと思う。

桑原

小泉元首相が「脱原発」を声高に言い始め、しかも「今やらなければ」と強調しているのも、規制委員会と電力会社とのきわどいせめぎ合いを睨んでのことなのかな。フィンランドの放射性廃棄物処理施設「オンカロ」の視察に、三菱重工、東芝、日立などの原発メーカー幹部を誘い、10万年レベルの時間を必要とする処理施設を目の当たりにして、「脱原発」にリアリティを持たせたのも、実は原発をめぐる「資本の論理」に矛盾がふくれあがっていて、いますぐにでも、そこに手を入れないと、矛盾の爆発を免れえないとみたからなのかな。

なるほど、藤井さんの「再稼働できない」論理が、この方面からも、具体的に見え始めてきたね。

⑥ 福島の現状は憲法違反であるということ(2)

藤井

けっして不思議な文面ではないと思う。憲法前文に、「われら」(「われら」とは日本国民のこと)は、

全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する

とある、それに続いて、

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる

と、見える。

一国の憲法である日本国憲法に、「全世界の国民」の権利と、それから「各国の責務」とが書き込んであることは、やはり思い出しておきたい。厳密には「引用として」書き込まれている。「フランス人民の名において」(「フランス共和国憲法」1848年)のように、自国の権利で徹底させるのが一般だろう。日本国憲法にも、読み返すまでもなく、「われら」(=日本国民)のために、という趣旨の主要なトーンがある。

けれども、ぼくら(私たち)は小学生時代より、日本国憲法から、何となく、「日本国民は」といったような、ナショナルな心情とは違う、もう一つのトーンでこの法規を受け取っていたように思う。ではなかったかしら。

近ごろの(憲法)改正案のたぐいでは、削られてしまうところだろうし、「押しつけ」だからこのような国際主義が前文に書き込まれるのだ、というような意見が出てくるかもしれない。でも、この自国中心主義の否定を憲法が掲げることは、昭和20年代以来の自然な基調だと私には思える。

桑原

藤井さんの言う「もうひとつのトーン」について――

ぼくも子どもだったから、憲法を読み込むなんてことはできなかったし、しなかったけれども、ぼくのなかでは、クニと戦争は表裏一体をなしているもので、新しい憲法で戦争がなくなるということは、クニがなくなってゆくことだという感覚があった。ところが朝鮮戦争の勃発で、また戦争になるのかよ、もうやめてくれという気分とともに、クニなんかなければいい、という作文を書いて、担任でない先生にアカ(!)ではないかと問題視され、逆にとまどったことをおぼえている。いま思えば、憲法が高々と掲げた「世界の国民が……平和のうちに生存する権利」を有するという宣言と、それに裏付けられた国際主義が、ぼくの周辺に、つまり戦争でいためつけられた人びとが汗水流しながら暮らす町の中に、気配として漂っていたのだと思う。

子どもだからこその感覚なのかもしれないけれど、それ以降も、いまだに、たとえば「日本国民」を前面に押し出されると、それだけでその事柄に否定的になる。サッカーのワールドカップのときの喧騒などはそのひとつの例だが、こんどの2020東京オリンピック招致をめぐる大きな流れには、「非国民」という言葉を、冗談でなくしてしまうような恐ろしさを感じている。あとで触れざるをえないと思うけれど、オリンピック招致の勢いに乗じるかのようにして「秘密保全法」を成立させようとする政治的な動きや、間髪をいれずに浮かび上がってきた、リニアモーターカー構想などは、すべて一体となってふくれあがってきている。

もちろん、それらすべてに「原発」が絡んでくることはまちがいないし、福島について、すべてリセットしてしまおう、なかったことにしようとすることとも重なっている。

憲法前文のなかに「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」と書かれていることと真逆の方向が、くっきり浮かび上がってきていることも、忘れずに書き留めておこうと思う。

藤井

うん、チェルノブイリ事故を国際管理下にもっと置くべきだし、福島第一原発基地の過酷さもそうだ。汚染水を事故当初から海へ放流していること、放射性物質をひろく飛散させていることにおいて、世界の各国、もしかしたら全世界の国民の共有の責任として、民主主義的な自己責任論では片付かない、全地球的な管理下に置かねば済まない。

「レベル7」「レベル3」について、おさらいしておこう。

レベル7 深刻な事故
レベル6 大事故
レベル5 事業所外へリスクを伴う事故
レベル4 事業所外への大きなリスクを伴わない事故
レベル3 重大な異常事象
レベル2 異常事象
レベル1 逸脱
レベル0 尺度以下
(国際原子力事象評価尺度〈INES〉)

レベル4以上を事業者は「事故」と言う。レベル3以下は「異常事象」ということになる。「ふくいち」(福島第一原発)の事故は「レベル7」とされる。事故は爆発時のみならず、4号機の使用済み燃料がつぎの大きな地震(あるいは台風の直撃)で崩壊する危険などを含んで、「レベル7」であり続けている、ということができる。

汚染水の流出は「レベル3」だという。「レベル3」は事故でない(異常事象だ)という理屈で、汚染水保存タンクのつぎつぎの水漏れについては、どういう評価になるのか、よくわからない。でも、タンクの製造者による、「あれは長くもちませんよ」という証言もある通り、人為的な「事象」というか、「事象」でなく(レベル3としても)「事故」と見るべきだろう。東京新聞記者Tさんが言ったように、

きのうも「レベル3」、きょうも「レベル3」

だ。一般のひとが馴れてしまい、「レベル3」「あ、そう」という反応に陥ってしまうのは残念だ。「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」という行文に照らしても、「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」という行文に照らしても、日本国憲法が、このたびの福島第一原発の事故を、そして汚染水の垂れ流しを、憲法違反だと宣言しているのではないか。(この憲法前文についてサプライズ展開がある。次回に話題にしよう。)

桑原

汚染水の問題を「レベル3」としたのは、まったくの詐術というべきではないか。「ふくいち」の事故は「レベル7」で、なにも終息したわけでも、収束したわけでもない。あたかも、事故が「レベル7」から「レベル3」にレベルダウンしたかのような錯覚を作り出すためのトリックであることを、確認しておきたい。そもそも「レベル3」を打ち出すとき、当事者の間でも、「レベル7」の事故の中に、「レベル3」という事象を設定するのはおかしいのでは、という議論があって、報道もされたけれど、いつの間にか、あたかも「ふくいち」全体が「レベル3」という事象にとどまっているかのような印象をもたらした。実際には「レベル7」の、緊急と緊張とを要する事態が、今なお進行中なのだということは、繰り返し、語られなければならない。

それにしても「汚染水保存タンク」という、だれにも姑息としか思えない方法で、しかもきわめて不安定な(洩れたり傾いたり)対応で、ひやひやしながら日々をやり過ごしているという事実には驚くばかりだ。もともと、原発最大の難点だった「放射性廃棄物」の処分方法をスルーしてきたツケが、「レベル7」の事故で、一気にクローズアップされてきたものの、さらにこれをスルーしようと、日夜知らぬ顔の半兵衛を決め込もうとしている、オヤカタたちである。「完全にコントロールしている」とは、「完全にスルーできる」ということと同義だ。自信満々なのだね。明白な憲法違反であるにもかかわらず、「憲法」の意義を、クニが国民を支配するための決まりごととしてしか理解していないから、こういう場面で「憲法」が論議されるとは、思いもよらないことなのだ。であればますます、うるさいほど「憲法」論議をつづけることが、大切になってくるな、というのが実感としてある。

藤井

海は湾内から湾外へ、外洋へ、公海へと繋がり、世界によって共有される。汚染水が海へ流出することは避けられず、世界の海へと希釈されながら広がってゆく。希釈されるとしても、海産の、たとえば魚類が体内に放射性物質を蓄積することはないのかと、だれでも心配して当然のことだ。魚類じたいが世界を回流し、輸入規制がない限り、世界に流通する。(当分、心配はないと、またしても専門家筋が述べているけれども。)

⑦俊鶻丸、588トン

桑原

海と放射性物質ということでいうと、1954年3月1日にビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験で、第五福竜丸などが被曝し、水揚げされたマグロから放射性物質が検出され、大きな問題となった「第五福竜丸事件」を思い起こしたい。このときアメリカは、放射能は海で希釈されることを強調したが、実際に調査した結果は、希釈されるどころか、魚類に濃縮・蓄積され、どんどん汚染は広がっていたのである。

この調査に関しては、ETVでそのドキュメントが放映され(「海の放射能に立ち向かった日本人~ビキニ事件と俊鶻丸~」2013年9月28日)、ぼくは、友人のフランス在住アーティストから知らされて見たのだが、水産庁のバックアップで、気象学や海洋学、生物学など、関係分野の学者がチームをつくり、それぞれの若手学徒が調査船に乗り込んでいる。調査船の名は俊鶻(しゅんこつ)丸。588トンという小さな練習船を改造したもので、科学者22名を含む総勢72名。出港前に家族と水サカズキを交わすなど、決死の覚悟だったという。かくして、水爆実験による被曝からわずか2か月たらずの5月15日、東京・竹芝桟橋を出港、遠くビキニ環礁付近まで危険を冒して行き(実際、出港前日にも核実験は強行された)、海の状況や魚の状況をつぶさに調べ、汚染の実態を突き止め、世界に警告を発した。

このような、学の壁を取り外し、力を出し合っての調査が行われたということ自体にも、感じ入るところがある。クニからの予算が大幅に削られた(水産庁の3000万円という見積りに対して、大蔵省は半額以下の1400万円に削り、調査船の安全面に課題を残した)ので、放射能測定器など、ありものを寄せ集めて作ったという学者もいて、その真摯な態度に、学問のあり方の一端を見た気がする。

藤井

感じ入るよね。

空気中へ吐き出される放射性物質は、国境などない以上、全世界共通の責任へと認識されなければならない。日本社会が国際的に生きようとするならば、日本国憲法によって事態を曇りなく嘘偽りをいっさい放擲して公開し、「解決」を求める必要がある。秘密裏や隠蔽や過小評価のすべてが憲法違反であると認めようではないか。

「政治道徳の法則」という注意点もある。けっして単に道徳的に許されない、といったていの決めつけでなく、われわれは政治倫理の立場に立って、すべてごまかしたりせずに、公開、民主、自主の三原則そのままに、国際社会へ投げ出さなければならない。「レベル3」の、「レベル7」の事象あるいは事故に対して、日本社会が道徳的に苦しまねばならないことはそれとして、たとえば戦争や紛争の危機を外交の努力によって回避するのと同じ理屈で、この解決しようのない過酷事故ならびに汚染水の垂れ流しを「解決」へと持ってゆかねば。

桑原

ほんとにそうだと思う。学の壁を取り外し、クニの壁を取り外し、「国際社会」を現実のものすることが、なぜできないのか。現実に放射能を浴び、将来に不安を抱える子どもたちや、母親になりうる女性たちが、このことを知ったら、なぜ? を繰り返すだろうね。ところが、ほんとうのことは知らされていない。「ふくいち」が「レベル7」の深刻な事故であると認めること、そして、ほんとはどのような事故だったのか? その現状は? メルトダウンした塊はどうなっているのか? その再臨界の可能性は? それを防ぐ方法はあるのか? あるいは、その方法はどこまで追求されているのか? そういった情報を公開することは、「憲法」が、クニや当事者に根本から要求していることなのにね。

ちなみに、ビキニ環礁水爆実験に対する調査船・俊鶻丸が収集したデータを分析した、アメリカの民間海洋研究所のレポートは、国防に関する極秘事項として秘匿され、12年後にやっと公開された。「ふくいち」も、今や国防秘の様相を帯びてきているということに、注目していきたい。

⑧私は汚染水

藤井

阿武隈山塊の巨大な水の塊をわれわれはつい最近まで意識から逸らしていた。

豊富な雨水が表面の土質を通過して地下に滞留し、あるいは流れ、そのために阿武隈山塊はぜんたいが水袋と言ってよい豊かな自然を形成する。川が水を大地にもたらすのでなく、地下の流域に広がる水そのものがまさに源(みなもと)からの流れであり、それは溢れんばかりにして海へと押し寄せる。川はその終末的な姿なのだろう。根源的な水の姿はかえってわれわれの目から見えないところで生きている。

福島第一原発の建設途上で、地下水が溢れて溢れてじゃぶじゃぶだった、という話がある。なかなかその実況的な証言をえられないけれども、山ふところに建設された原発基地は、その地下を豊かな水量が、覆い包むようにして海へと流れてゆく。つまりすこし掘り下げれば湧水し、海底まで行けば地下から噴井するいう、地質学的な、あるいは地下水学というか、このありようは福島のここにのみ限らない。

桑原

「阿武隈山塊の巨大な水の塊」という表現から引き出されてくるイメージなのだけれど、山には水がまんまんと湛えられていて、そこには大小さまざまな生物が生きている、つまり山はいのちの塊なのだということを、あらためて意識していいのでは、と思う。

それは、海に対しても同様で、開発という名のもとで海に進出していくとき、海が単なる水の塊であるという認識がハバをきかせる。これは、バブル期における東京の再開発をめぐっていろいろと取材しているときに実感したことなのだが、開発者にとって海は、絶好の「サラ地」なのだった。そこに、削り取った「山」を投げ込めばたちまち開発に好都合な「サラ地」ができあがるというわけだ。

海であれ、川であれ、湖沼であれ、ただの水の塊ではない。無数のいのちであふれている、いのちの塊なのだ。そのような想像力もはたらかなくなるほど、人は、大自然への意識(畏敬の念といってもよい)を喪失してしまったのだろうか。

先述したアメリカのビキニ環礁水爆実験も、海(しかも「いのちかがやく」と敢えて言いますが「環礁」ですよ!)に対する想像力をまったく欠如させた発想であり、これは沖縄の辺野古の海を殺し、軍事基地を設けようとしているのと、軌を一にしている。

ところで、日本列島は水に満ち、水とともにある。四方を海に囲まれ、ゆたかな緑におおわれた山と、そこから流れ出る川、等々……そして、そのような大自然との折り合いのつけ方として、農業、漁業、林業などの「第一次産業」が、きわどく成り立ってきたのではなかったか。文字通りの「第一次産業」だったのだが、いつの間にかそのような呼称が消し去られるとともに、大自然に対して、折り合いをつけるどころか、これを征服しようとして巨大技術を開発・投入してきた。原発はその代表的存在であり、チャンピオンとしての自負から、大自然を克服したかのように見せかけ、いま、大きな壁にぶつかり、おろおろしているように見えてしょうがない。

かつてチェルノブイリ直後にいろいろと調べたとき、放射性廃棄物の処理にあたって、日本列島の状況、藤井さんの言う、地質学的なあるいは地下水学的な状況が、納得できる情報としてまったく公開されてこないことにびっくりし、これはもしかしたら単純に列島のことが把握できていないということなのかな、おいおい、そんなことで原発を動かすのかよ、という素朴な疑問を抱いたものだが、なんのことはない、そのなれの果てが、今の汚染水問題であり、このような問題は、次々に起こり、次々に、はてしなく先送りされていくのだろうな、という、無責任きわまりない感想をもってしまう。

藤井

(a)海水から放射性物質―ヨウ素131法定限度の126倍、「過度の心配は不要」専門家―現場海産物 流通なし
(b)海水から1250倍 放射性物質―放水口付近 建屋地下で漏出か
(c)2号機 放射線1000ミリシーベルト超、たまり水―抑制室損傷か
(d)2号機高汚染水 溶融燃料と接触 安全委―炉心損傷認める、「格納容器から直接流出」
(e)圧力容器 破損の疑い、「高熱で底が貫通か」 大量の汚染水 処分困難
(f)プルトニウム、燃料棒溶融裏付け―敷地外も測定検討 プルトニウム「微粒子、水と流出か」
(g)2号機 亀裂から海に汚染水 流水箇所、初の確認
(h)低汚染水 海に放出―1万トン、最大で基準の500倍 高濃度水の保管先確保
(i)「水棺」冷却を検討―政府東電 圧力容器ごと浸す
(j)冷温停止6~9カ月―東電が工程表発表 2段階目標、1~3号 水棺に

上にaからjまで、10項目を書き出してみた。きょう、明日の記事ではない。上は2011年3月から4月上・中旬の記事から見出しを書き出している。汚染水問題が変わらず今日まで続いているにもかかわらず、途中、意識から逸れていたこれらを思い起こさねばならない。

いま、『原発報道―東京新聞はこう伝えた』(東京新聞編集局編、2012年11月)をわりあい丁寧に読んで、思うこととしては、(一)当初から問題点が指摘され山積みされていながら放置されていることの多さ、そして、(二)事故後において東電、電事連、「専門家」たち、原子力ムラ、経産省、文科省などによる、隠蔽、責任回避、情報操作、メディア監視、マネー志向のものすごさ、あさましさ、すさまじさ。汚染水問題もそうした隠蔽体質や責任回避のなかに埋もれて、放置されてきたと言える。

aからjまでの日付を一応、書き出しておこう(いずれも東京新聞)。

(a)2011年3月22日夕刊
(b)3月26日夕刊
(c)3月28日朝刊
(e)3月29日朝刊
(d)同・夕刊
(f)同・夕刊
(g)4月3日朝刊
(h)4月5日朝刊
(i)4月8日朝刊
(j)4月18日朝刊

緊迫の度を持続させながら、4月には早くも石棺ならぬ「水棺」の構想まで出ていたことが確認できる。これはかなり重要な項目だと思う。炉心が溶融し、底は貫通しており、プルサーマル物質が海に流出するなかで、高汚染水はタンクを作って保存し、年末には首相が「冷温停止」を発表する、という、こんにちからみて予測される範囲や段取りを、記事はこの時点でよく見ぬこうとしている。改めてジャーナリストたちが未来予測と現状把握との間合いで宙づりされるようにして記事を書き続けるという雰囲気であったと知られる。

桑原

当事者たちの、「隠蔽、責任回避、情報操作、メディア監視、マネー志向のものすごさ、あさましさ、すさまじさ」には、つい絶望的になってしまう。彼らは本気でそう思っているからで、そのことを骨身にしみて知っている、数は少ないだろうけど気骨あるジャーナリストの、孤軍奮闘というに等しい闘いを、これ以上孤立させないような意識を保ち続けたいと思う。

⑨デブリを冷却せよ、水棺よ

藤井

知りたいのは、そしてなかなかだれも教えてくれないのが、炉心溶融による、原子炉の底に崩れ落ちた、放射性物質を多量に含む溶融塊の行方ではないか。スリーマイル島のメルトダウンでは圧力容器の底に放射性物質が溜まる。「ふくいち」ではその圧力容器の底が抜けたって。溶融した高熱で、その圧力容器の底に穴が開いた。つまり、メルトスルーして格納容器の底に溜まった、あわわ。

格納容器の底と言えば、地下だけど、そのあとどうなっているのかしらん。格納容器の底を割って、もっと下まで行っているとすれば、もし私が現場の責任者ならば、もう黙っていたい(頬被り)、という気分になろう。

たしかに、地下にもぐりこんだ、メルトダウン塊(と名づけておこう、正式の名称がある〈後述〉)のその後を、説明することは難しい。しかし、地下のマグマだまりや間欠泉の構造を、だれもが見たことがなくて推測するのとはわけが違う。かつては地上で人々によって造られた人工物のそののちだ。埋蔵量という数値は、金鉱でも、石油でも、どうせ概算や推測でしか言えない。だから専門家筋から、概算でよいから、メルトダウン塊の総量、もうすこし言えば、再臨界の危険性について語ってほしいと思う。使用前の燃料がどれだけのこり、使用済みの燃料がどれだけで、生産されたセシウム134や、137や、プルトニウムはどれほどであるか。なぜ、トリチウムがこのごろ増加しているのか。

まあ、私どもという、往年の科学少年、科学オンチ、オタク、なんでもよいが、小学生でも中学生でも、一家言をみなこましゃくれて持っていた時代のわれわれ、その一人である私が、地下のメルトダウン塊の再臨界をひそかに恐れてもあいてにされない理由は、非専門家だからであり、妄想家であることが商売であることに起因する。

しかし、「福島第一原発一号炉のメルトダウンした燃料デブリが不幸にしてもう一つの『オクロ天然原子炉』にならない事を願い、黒田の遺訓を活かして、この深刻な問題に一刻も早い対応を訴えたい」と地球惑星科学の小嶋稔さんは言う(『図書』2013年7月)。これは私のひそかに待っていた論調ではなかったか。ああ、燃料デブリと言うんだ。天然原子炉を提案した黒田和夫のアイデアはガボンのオクロ鉱床で「実証」される。

桑原

ここであらためて補足しておくと、小嶋稔論文には、次のようなことが記されている。

――2012年7月に経済産業省で行われた「福島第一原子力発電所事故に関する技術ワークショップ」での報告はたいへんショッキングなものであった。

このワークショップでは、2011年3月11日の原発事故の直後にウランの核分裂連鎖反応の再臨界が起きる可能性があったことが議論されている。綿密な計算結果から連鎖反応の可能性が高かったにもかかわらず、なぜか大規模なウランの核分裂連鎖反応が起きなかった。しかしこの幸運は、海水の注入により、予想もしなかった塩素(正確には塩素系同位体のひとつ塩素35)の中性子吸収効果という、まったくの偶然に助けられた結果だったと結論している。さらに、この驚くべき事実に関する一般への報道が十分にはなされていない、というのもまた驚きである。

過去2年、放射能汚染の議論・報道が毎日のマスコミを賑わしている反面、さらに深刻な再臨界の議論が専門家の間ですら皆無に近い。しかし、1972年9月フランス原子力庁が発表したガボン共和国(アフリカ)での「オクロ天然原子炉」の発見は、再臨界は原子炉内に限らず自然界でも起きる事を証明した。

――現在の福島第一原発の一号炉はメルトダウンを起こし、原子炉から漏れ出した約35トンのウラン燃料は、これも一緒に溶融した周りの物質と混じり合いきわめて複雑な化学組成の物質(デブリ)を創り、原子炉格納容器下部に溜まっていると思われているが、詳しい状況は極度に高い放射線のため直接観測は不可能で、実態は分からない。

――福島第一原発一号炉のメルトダウン・デブリウランが置かれている環境は、豊富な水の存在、そしてウラン235の濃縮という、核分裂連鎖反応を起こす二つの重要な因子が高くなり、「オクロ天然原子炉」の環境に、より近づくことになる。

以上が小嶋論文の引用だが、ひと言でいうと、「ふくいち」の現状は、いつ再臨界が起きてもおかしくない、あるいは、再臨界についてまったく把握できない状況にあるということで、まさしく「レベル7」の事故が継続中であり、まったく「コントロール」できていないということでもあるね。

藤井

メルトダウン塊を冷却しなければならないとは、再臨界を恐れるからだよね。福島原発の地下で天然原子炉が働き出したら、たまったものではない。そもそも原子炉基地が海岸に建設されるのは、あるいはチェルノブイリのように湖水の近くに建設されるのは、多量の水を必要とするからだった。

いま、事態は「レベル3」の事故ないし事象としてある。メルトダウン塊を冷却し続けるほかに、再臨界を食い止める方法がない。人知を尽くして、あるいは人知を怠って拱手傍観するならば、あとは原発じしんの意志に、ないし選択の自由に任せる、という方法があるかもしれないと思い当たる。阿武隈山塊の豊富な地下水が、みずからは汚染水になりながら、地下の仲間である醜い人工物の残骸であるデブリを冷却しているのだろう。そう思えてくる。

あとはオフレコ。つまり、現実的に「解決」策がない。シルトスクリーンはまさか放射性物質を遮蔽する装置でなし、地中に壁を造っても、日に1000トンの地下水ないし300トンの汚染水は阻止できるわけがなくて、またメルトダウン塊の下面に底辺を造ることはできないし(近づくだけで致死量の放射線をわれわれは浴びる)、静かに、原発じしんが水棺となる道を選んだと受けいれることができるならば、人知の及ぶのはそこまでだという、われわれは哲学者になって、あるいは外交官たちを哲人にしたてて、世界に対し無限の謝罪と、平和への寄与とを誓うしかあるまい。解決はその先にあろう。政治倫理の立場に立つとはそういうことだろう。

桑原

現実的に解決策がないにしても、「レベル7」の事故であることの警鐘を折あるごとに鳴らしつづけ、福島に戻れない15万余という難民の存在をことあるごとに伝えつづけ、この事態が「憲法」に著しく背いていることだということを、繰り返し確認していかなければね。

⑩〈原子力の憲法〉の改正

藤井

非専門的なわれわれの発言ついでに、もう一つ、言われてよいかな、という哲学がある。原発が原理的に許されないことを語る、現代の〈資本論〉(経済哲学)がほしいな、という一念がのこる。原発のコストの格安さといった喧伝には根拠がないことを『原発のコスト』(大島堅一、岩波新書、2011年12月)から教えられた。高級感にむらがる習性のある日本社会には、コストが高くつくことにも利潤を追求するさもしい一端があると思える。

原子力利用という論調は、医療における放射性同位元素の開発を始めとして、その初期に多岐にわたっていたのが、電気という貨幣へと多く還元されて、火力、水力との競合へと持ってゆかれたことには、何と言っても腑に落ちてこない、経済学的な落とし穴がひらいているような気がする。もどかしいな。巨大なマネーゲームの中心で、稼働しえない、たとえばもんじゅ(高速増殖炉)に資本を注ぎ込むことの得体の知れなさには、単に軍事的な利用への転換という説明の枠で説明しきれない、資本主義という神の意志というか、双面的な神の善と悪との相克が行き着いた、終末的な経済倫理を解明すべき、終わりしのちの革命を追いかける革命理論のような、むざんな哲学の可能性に、まだまだ知力を振り回してよい余地がある、といったふうな。

人類史の当初(人類祖型の人間化)といえば、そこにこんにちの人類の為体(ていたらく)が埋め込まれていたのだろう。利器の軍事利用が人類の最初から組み込まれていたのとまったくおなじ理屈で。そこを批判の俎上に載せるのでなければ、われわれの経済学はついに現状分析と、そしておそらく経済外的要因に経済学を捧げるという、学的敗北とを目前に見ることになる。

桑原

ちょっと藤井さんの問題提起とずれてしまうかもしれないけれど、さっき「水」の問題で少し触れた、大自然と人類との付き合い方(「闘い」という言い方はしたくない。大自然を征服した錯覚に陥ることを「勝利」と位置付けてしまいがちだからだ)における「第一次産業」ということに、どうしてもこだわってしまう。その対極にあるのが「巨大技術産業」で、大自然との付き合いを「闘い」ととらえそれを克服しようとするために巨大なマネーが動く。これは乱暴な比喩的表現にすぎないのかもしれないけれど、「第一次産業」の基本は大自然との付き合いを深める(大自然を知る)人智の結集であり、「巨大技術産業」の基本は、それを実現するためのマネーの結集ではないのだろうか。

ぼくは東京スカイツリーが「ふくいち」の事故からわずか1年たらずでオープンしたとき、これは原発再稼働のオープニングセレモニーだな、と思った。そこからは一瀉千里の如くで、繰り返しになるけれど、「東京オリンピック」、「リニアモーターカー」と、巨大技術と巨大マネーがもぞもぞと、じゃなかった、公然と動き出している。こういう流れをしっかり、根こそぎとらえる経済学ってないのかしらん。実はぼくらに知られていないだけのような気もするんだけど。

藤井

軍事利用とのかかわりと言えば、東京新聞2012年6月21日朝刊に、

「原子力の憲法」こっそり変更
付則で「安全保障」目的追加―軍事利用への懸念も

というページがある(前掲『原発報道』146~)。「原子力の憲法」とは、「公開・民主・自主」という三原則を掲げる「原子力基本法」をさす。原子力規制委員会設置法案の新設に伴い、その「原子力基本法」も改正しなければならない。規制委員会の目的を「国民の生命、健康及び財産の保護、環境の保全並びに我が国の安全保障に資すること」とし、それにあわせて基本法にも手をつけた。つまり、「平和の目的に限」るという第二条に「2」項を附加して、そのなかに「国民の生命、健康及び財産の保護、環境の保全並びに我が国の安全保障に資すること」という同文を掲げている。

法の制定というのはまったく「おもしろい」。基本法が「平和の目的に限」るとしたのは、武谷三男らの当時の指摘に待つまでもなく、軍事優先の昭和20~30年代に、「平和」を掲げた意図は明快であり、何の陰りもない。しかし、平成24年(2012)に至って、「国民の生命、健康及び財産の保護、環境の保全」に加えて「我が国の安全保障に資する」という附項を加えたとき、第1項のうたう「平和」は、ごく自然に平和維持や平和のために軍事行動を含むことになる。しかも、いかにも原発事故のどさくさにまぎれて、東京新聞の言う通り、「こっそり」と改正したと見られて仕方がない。基本法の改正は現政権の意図で押し通されたと称するしかない。原発事故を利用する政治の狡知の最たる在り方の一つ。政治倫理、地に落ちたということだろう。

桑原

ああ「安全保障」よ、だね。クニがひとりひとりのいのちを支配する方便として、「安全保障」はある。唐突なようだが、映画『標的の村』(三上智恵監督)を多くの人に見てほしい。「安全保障」が何をもたらすか、雄弁に物語っているひとつの現実がここに映し出されている。

そしてこの「安全保障」をさらに強固なものにするために、「秘密保全法」が制定されようとしている。「治安維持法」と同義の法律で、クニはこれを成立させようと躍起になっている。女優の藤原紀香さんがブログで、この法律に対する懸念を表明して話題になったが(もっともっと、ミーハー的にでも話題にしていい)、すでに公安が藤原紀香さん周辺を調査して、発言のもとを探ったという話まで伝わっているほど、クニもナーバスになっている。藤原紀香さんは、ぼくの知るかぎり、戦争に翻弄された「宝塚歌劇団」を描いたテレビドラマ『愛と青春の宝塚』で主演したり、ナチスドイツの跳梁を描いたミュージカル『キャバレー』の日本版舞台で主役を演じたりして、戦争期のことを勉強しているから、「秘密保全法」にたいする危惧は、当然の反応だったのだが、山本太郎さんと同様、まことに勇気ある発言だったと、ぼくは率直に評価したい。役者としての評価とともに!

(以上、第2回配信)

 

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藤井貞和(ふじい さだかず)
1942(昭和17)年生まれ。詩人、日本文学研究者。立正大学教授、東京大学名誉教授。最近の著作に、『人類の詩』(思潮社)『文法的詩学』(笠間書院)などがある。小社からは『言葉と戦争』『水素よ、炉心露出の詩――三月十一日のために』を刊行。

桑原茂夫(くわばら しげお)
1943(昭和18)年生まれ。編集者。編集スタジオ・カマル社代表、反抗社出版主宰。震災後、藤井貞和のひとり連歌集『東歌篇――異なる声 独吟千句』を編集・刊行。『水素よ…』では補注を担当。最近の著作に、『御田八幡絵巻』(思潮社)がある。

 

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